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Talk 閑話休題02
■ 2010/01/22

マンガ、『帰蝶―閑話休題ノ弐』、アップです。
あざ丸について――多分、改めて紹介です。
元を正すとどうやら平安時代……源平の頃に遡るらしいです。『悪七兵衛』と異名をもつ平景清の太刀であったといい、あざ丸というのは景清の顔のあざからとられたともいわれているそうです。
また、景清自身が眼を病んで失明したらしい(熱田神宮:景清社より)というところから、どうやらこの脇差を手にした者は眼病などを患ったとされています――が、実のところはよくわかりません。
景清自身が熱田神宮に縁がある人であったらしく、数百年の後、熱田神宮宮司千秋紀伊守季光が脇に差して討死にすると、それを陰山掃部助が入手して……とある戦いで両目を打ち抜かれるという悲劇に見舞われました。
本当に景清の祟りかはわかりませんが、そんな悲劇が起こってしばらくして――あざ丸を手に入れた信長より丹羽長秀に渡ったといわれています。
そこで、長秀は眼病に苦しむことになり、結果本編みたいに熱田神宮に奉納して、すっかり眼がよくなるわけですが……一説では、この眼病のせいで片目を失明していたかもしれないといわれております。
『信長公記』では、順序立てたものでも、首巻のかなり手前に紹介されているのですが――実際はこの話自体がどこら辺で起こったことなのかさっぱりわかりません。というのも、公記内での紹介のされ方が「惟住五郎左衛門長秀」とされているため、時期がかなりブレていたりします。首巻の大分前に紹介されているため、素直にそのままにとってはおりますが……実は本当に『惟住』の名をもらった後に起こっていたことだったら……どうしましょうか?


■ 2010/01/10

マンガ、『帰蝶―閑話休題ノ弐』、アップです。
あざ丸……について、首巻辺りで語った記憶があるようなないような、なのですが、次回改めて語ってみたいと思います。
さっさと語り……というより言い訳をしておけば、どうも脇差みたいです;
話の都合上、太刀になってしまっていますが、ご愛嬌……ってか、こいつら太刀しか差してないしね;


■ 2009/12/31

マンガ、『帰蝶―閑話休題ノ弐』、アップです。
とうとう万千代が元服いたしました。名前は『丹羽五郎左衛門長秀』。
この人については、今までも何かと語ってきたような気がしますし、これからも何かしら語る気が致します。
どこから『五郎左衛門』と名づけたのかとかはよくわかりません。わかりませんが、この通称は、長秀の嫡男長重も受け継ぎます。なんか由緒正しい名前になっていくみたいです。
ひとまずいえることは、この人は生涯『五郎左衛門』でした……一応、豊臣時代に(羽柴)越前守と秀吉からもらいますが、自身で率先して名乗っていないのでそれは割愛。


■ 2009/12/20

相変わらずですが、限りなく言い訳に近い語りです。
まず、この時代の女性には基本的には結婚の自由は、身分が上になればなるほどなかったといわれています。逆に、男性の場合、身分が上になればなるほどよりどりみどりだったそうです。
主君にあたる人からアプローチされたら、余程でない限り断ることはできなかったと思います――これが恒興の池田家みたいに、稼ぎ頭(?)である父が他界しており、主君の嫡男の乳母になることでどうにか我が子の将来を繋げた、みたいなよすががない状態の女性の場合、余計そうだっただろうと思います。
そうじゃなくても、相手は現在、尾張一の実力者です。挙句に機略に優れ器量人(武功夜話)で優れた人達を味方につけるくらい優秀な人(信長公記)といわれるくらいの人なら、そりゃ断る道理がございません(思いっきり自分の考えです☆)。
……とか何とかいって、実際のところどういう理由でかはわかりませんが、勝三郎母(大御乳、養徳院)は織田信秀の側室になります。
ちなみに、乳母が側室にあがるというのは当時そんなに珍しいことではなかったみたいです。実はその子信長も嫡子信忠の乳母を側室として娶り、後に三の丸殿(豊臣秀吉側室)と呼ばれることになる女をひとりもうけたといいます。
さて、側室にあがった勝三郎母ですが……実際はそのことを勝三郎は前もって知っていたと思います。ってか、知ってて当たり前だとおもいます。ですが、物語の都合上、息子に全く相談なく、母はいつの間にか主人である信秀側室になっていた――ということに致しました。
えぇ!?と思った方もおられるかもしれませんが、ご了承ください。


■ 2009/12/18

激昂した勝三郎をさくっと諌めた万千代なわけですが……いくら下剋上の世の中常に戦な戦国時代といえど、平和な時間はあるわけで……そんな時にまでさくさく刀を抜いたりすることはなかったみたいです(信長公ですら、止めたりするしね☆)。
だけど、現代と絶対『死生観』が違うと思うのです。
何せ、自害とか切腹とか当たり前にできた人達ですから……自分に置き換えて絶対できないって断言できるもん←こういうやつはまずこの時代では生きていけないと思うな;……武士やその家族としてだけど
現代の脳ミソで普通に考えた時、勝三郎が怒ったのを止めるのに「無駄な殺生だから」とはいわないと思うのですが、↑みたいな理由で当時ならいうかなぁと……そもそも、現代で簡単に刀抜くとかあり得ないわけですが。
この頁の大半についての語り(言い訳)は、次回にしたいと思います。


■ 2009/12/12

マンガ、『帰蝶―閑話休題ノ弐』、アップです。
ダラダラ語り……というより、完璧言い訳です。
勝三郎が刀を抜いた際の鞘の位置は完璧に画力不足なため、あんなカンジになりました;
本当はちゃんと、腰元に差している予定です……ですので、次の瞬間もしか腰に差してあってもそっちが正解☆腰から外れているのは幻です☆★☆


■ 2009/12/10

細かいことは後に多分いうかと思いますが……勝三郎母が織田信秀の側室になったのは事実のようです。
後の話になりますが、側室になり小田井殿と呼ばれることになる娘をひとり産みます。信長には異母兄妹であり恒興にとっては異父兄妹になる女性で、後に信長のおおよそ遠縁にあたる織田信直に嫁ぎます。それについてはうんと後に語る機会もあるかもしれません。
お気づきかと思いますが、信長と恒興は、単なる乳兄弟ではないわけですね。小田井殿をはさんで兄弟っぽいカンジで……気心は知れていたでしょうが、信長も恒興にはそれなりに気を使ったのではないでしょうか。また、恒興の立場が他の家臣たちに比べると、当時は結構強かったんだろうな、ということが推測できます。


■ 2009/12/08

小姓について……大まかですが、(改めて)説明です。
身の回りの世話というのはあるでしょうが、戦国時代においては秘書的役割も担っていたといわれています。
年齢も、千差万別で別に『小姓=少年』というわけではなかったようです。今、本編に出ている『小姓』と呼ばれている人達は、どうみても若いのですが……ってか、今のところ確か、丹羽長秀と池田恒興くらいしか出ていないかも?
ここから近習や馬廻などになり、武将へと出世していく人達もいました。
さて、池田恒興はご存知の通り信長の乳兄弟であり幼馴染です。はやい話が勉強友達みたいに思えばいいかもしれません。気難し屋な信長相手に、このポジションは相当オイシイのではないでしょうか?――現実には、あんまり活用されたようには見えないですけど……それはおいおい。
丹羽長秀について、小姓あがりの武将であるといわれていますが、実はあんまりはっきりとはしていないようです。何せ丹羽家がはっきりし出すのが長秀の時代からですので、かなり曖昧らしいです。是非もなし……なのですが、一般的には小姓あがりといわれており、まあ信長と同年代なわけですから勉強友達といっていいかもしれません←当サイトでは、長秀は信長の小姓です。
先に説明したみたいなことを主にしていたのは、もしかすると恒興よりも長秀だったかもしれません。……今更ですが、当時もっと小姓と呼ばれる人達はいたと思います。ただ、あさおがわかっていないことと、あまり登場させるとわけがわからなくなるので、なかったことにしております。他の小姓達がやってたかもしれないことでもふたりじゃできそうにないことでも、このふたりにやらせてしまっております。ご了承ください。


■ 2009/12/06

万千代がいっていますが、父長政は斯波氏の下でしばしば武功をあげていたようです。
兄長忠については……早世している以外、実はよくわかりません。『丹羽家譜』には斯波氏に仕えたとありますが、一説には信長に仕えた「丹羽長忠」と同一人物とも考えられているようです。これ以上のことはわかりませんが、父も弟も武功をたてた人なのだから、兄もたてていいや、というノリで万千代にいわせてみました。


■ 2009/12/05

丹羽長秀――という名前になった経緯は、ウチの場合はこんなカンジにしました。
さすがに”秀”の字をそんな軽々しく付けられないような気がしたので……信長には含むところがあったかもしれないしなかったかもしれませんが……『長秀』以前に万千代が付けた実名が見当たらない(多分、存在しない)以上、信長かそれに相当する人が付けた、という方が妥当な気がしました。
さて、丹羽家から那古野城まで馬に乗ってこないと不都合な程遠かったかといえば……無茶苦茶遠いわけではないのですが、毎日通うとなるとさすがに徒歩はちょっと……当時の人は健脚だったでしょうが、あさおにはとても徒歩とか考えられなくて……(註:この当時の丹羽家屋敷はないようなので、長秀が建てた屋敷を元にしました)。ということで、丹羽万千代には主人から許可がおりて、馬で出勤してもらうことにしました。


こないだ、丹羽長秀の実名についてどうしようか悩んでいたのですが、結局さっくり流すことにしました。それくらいしか能力が追いつきませんでした……
さて、三郎君がいっている「保険」という言葉、実はできたのは明治維新後だったと記憶しております。
世界に漕ぎ出そうとしだした日本において、いろいろな方面で言葉が不足していたみたいで、この頃に『保険、経済』とか何かいろいろとできたんじゃなかったかと……日本人は『畑』とか自分に都合よく漢字をつくったりするのが得意なので、その延長上なんでしょうかね。ビバ!日本人><ですね☆
ということで、戦国時代に普通に「保険」とかいう人はいませんでした。代わりに何ていってたんだろう?――とか思っても、さっぱりわかりません。ってか、代わりが必要だったのかどうかも、よくわかりません;
あとね……三郎君、一応足の爪を切ろうとしているのですが……わかりますかね?お坊ちゃまはもしかすると、小姓(勝三郎)に切らせていたかもですが、まあアウトローな織田信長だしいっかーとかね……駄目だったら、ごめんなさい;


■ 2009/11/29

あさおの中で、信長にトップクラスで信頼されていた武将のひとりと思っているのが、丹羽長秀です。
いろいろと理由はあるのですが、そのひとつが元服名『長秀』のことです。
先に父『長政』兄『長忠』といっている通り、どうやら丹羽家の『通字(代々名前につける文字)』は”長”のようなのですが、個人的に(というか、どうやら専門家からしても)、主君である信長の名前と自分チの通字が重なるのは、主君=織田家の場合は不敬にあたったのではないかと……となると、”長”の文字が使えなくて、例えばお祖父ちゃんの頭の一字をとって『忠秀』とか……そんな名前をつけざるを得なかったのではないかと……問題は『秀』が信長父の一字なのですが、そこは「お屋形様はオレの主君じゃないしね〜」という軽いノリだったかも!?みたいな; あるいは、別の意味だったかもしれません。
織田家においてどうやら『信』の文字が通字のひとつであったようなので、信長がこちらを与えるということは物凄い特別なことでないとあり得ないと、勝手に考えます――実際、松平信康や長宗我部信親(烏帽子親が信長)といった特別な状態の武将の息子くらいしか『信』の偏諱については浮かびません。
ちなみに、丹羽五郎左衛門の名前が『長秀』以前に何かしらあったとか、少なくとも調べた範囲では見当たりませんでした(例えば、徳川家康は、(松平)元信→元康→家康)。ということは、元服時の所謂『初名』が『長秀』だったと考えていいかと思います。
ということで、丹羽長秀は信長から『長』の字の偏諱を受けたのだろうと考えます。
偏諱を受けた実際の理由がどんなものだったかはわかりませんが、一般的に実際の丹羽長秀は元服と同時に信長に仕えたといわれているので、ほとんど相手を知らない状態で一字を与えた信長は相当太っ腹か……斯波氏に仕えている丹羽家から次男坊が来たからこいつをしっかりおさえておかなければ!というのか(多分こっちの理由の方が正しい気がします)、どちらかだったかと思います。
理由はともかく、もしかすると信長から偏諱を受けた最初の人物が丹羽長秀だったかもしれません。後に、信長から「長秀は友であり、兄弟である」という言葉をもらったという逸話がある人物でもあります。ってか、実際義娘(信長兄の娘)が長秀の正室だから、兄弟って部分は間違いないよね☆……ではなく、ひとつ目の理由は端的にいえば、丹羽長秀、信長から長の一字の偏諱を受ける、でした。
ふたつ目の理由は、長秀自身が信長の義理の娘を、嫡男長重が信長の実の娘を娶っているという……織田家中で唯一信長と二代に渡って姻戚関係にあるという摩訶不思議……じゃない、信長から大変な信頼を受けていたのではないかと。みっつ目は先に述べたように、「長秀は友であり、兄弟である」という言葉をもらったという逸話とそんな逸話が残るくらい信長に忠実だったらしく『米五郎左』と巷でいわれていた(「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」の一部)ということです。
熱く無駄に語りましたが、作中では信長が丹羽万千代にどうしてだか(それなりの理由は後に出すと思います)”長”の一字を与えます。上でダラダラ語ったような理由で与えたのかどうか……今から考えようかな?どうしよう……


■ 2009/11/27

以前、書いたかもしれませんが再び――丹羽長秀の幼名は「万千代」、父は以前紹介したので割愛するとして……母は能呂氏の人であったみたいです。兄弟と女兄弟が3人の計6人兄弟であったらしいです。数え15歳で織田信長に仕えます。
お気づきかと思いますが、本当は信長に仕える頃と長秀父が病死する頃と時期がかぶります。が!あさおの手違いで、1〜2年くらいの誤差が生じてしまいました……実際は本編に出てくる時期には亡くなっているのですが、丹羽父には活躍(?)していただいております;
ちなみに、今描いている中ではまだ『万千代』、14歳なので元服しておりません。フィクションで元服前に信長のところに出入りする設定にしました。次回に細かい言い訳はしますが、ちょっと無理はあるかもしれませんけど、少なくとも個人的に元服前に長秀が信長に会ってないと都合が悪かった、というのが一番の理由です――ええ!?と思われた方もいるかもしれませんが、さらりと流してやってください!!


■ 2009/11/25

ここで少し訂正……というか、言い訳(?)なのですが。
本編の方で、丹羽長秀の父が登場しております。実は――長秀が元服した頃には多分ですが、亡くなっていました。
あの話を描いてからそのことに気づきました……なので、話の都合上、病を得ていますが、万千代の父はしばらく(万千代元服後も)それなりに元気に斯波氏に仕えている設定にすることにしました。
実際は、長秀数え15歳くらいで亡くなっています。ご了承ください。


■ 2009/11/21

もうとっくに気づいてらっしゃるかと思いますが、この女装(?)の人は……です。
万千代がいっております『姉御』とは、多分、犬山殿のことかと……あさおがわかった範囲で、信長の姉といわれている人はもうひとりいたようなのですが、如何せん名前までは……ということで、次女みたいですが犬山殿で確定☆
――というわけで、犬山殿について。
織田信長の姉で、犬山城主織田信清の室だったと伝わっています――以上です!
……本当にこれくらいしかはっきりわかっていないのですが、どこだったかですごい美人だったらしい、というのを読みました。どこで読んだかを覚えていない上にどういう経緯が書かれていたかもさっぱりなので、本気でさらりと流してやってください;


■ 2009/11/10

ダラダラ語り。……なのかどうかよくわからないのですが……勝三郎が万千代に向かって「ちま」とかいってるのは、史実的にどうだかさっぱりです。
はっきり調べられなかったのですが、どこぞで「池田恒興、前田利家(180cmを越える大男)ほどじゃないけど、結構長身だった」って読んだ記憶があるんです――が、どこでだったかさっぱり; 現段階では、調べきれませんでした。
なので、一応この物語上では『池田恒興、結構長身』ってことにしておいてください。
――つっても、この時期はまだ、信長よりちっこい設定なのですが……利家とか斎藤義龍みたいに今に残るくらいわかりやすいといいのに……いやもう、完全な愚痴です、ハイ;


■ 2009/11/04

昨日もちらりと書きましたが、丹羽家と織田家は仕えている先が違いました。
織田信秀ン家は主家織田家に仕えており、この主筋である織田家が仕えていたのが斯波家で、当時の丹羽家が仕えていた先でした。
というわけで、お互いがお互いの内情を知りたいし内情を知られないように……という所謂腹の探り合い、みたいな状態だったのではないかということで、信長にそれっぽいことをいわせているわけですが……結局、そういったことに万千代が役に立ったとは思えないので、杞憂だったかな?みたいな、ね;


■ 2009/11/03

以前も書いたかと思いますが、もう一度――丹羽長秀の幼名は『万千代』といいます。
丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉邑に産まれた万千代ですが、父は修理亮と号していたようです。
長秀の丹羽氏は『丹羽家譜』や『長秀年譜』によると、武州児玉党の出であるとされています。おそらくは長秀の丹羽家が児玉党だったから長秀の住んでいた地域の地名が『児玉邑』になったのでは?みたいな……あくまで想像です;
さて、あさおがわかる範囲ですが――児玉邑云々はわかりませんが、『尾張群書系図部集』によると、『丹羽』姓になったのは祖父忠長の時代だそうです。
この人は右近将監と号していたようで、どうやらお祖父さんの時代に尾張にやってきたようです。やってきた場所が丹羽郡だったから丹羽と名乗りはじめたということです。
お祖父さんは斯波義敏に仕えたということですが……この人、『応仁の乱』勃発に一役買っていたのではないかと記憶します……ってことは、お祖父ちゃんもこれ(武衛騒動とか)に加わってたってことか!?わお!(本筋の)織田氏も何気に『応仁記』に登場する感じだし、脈々としたものを感じますねっ><
父長政も兄長忠も斯波氏に仕えていたわけですが……先に申しましたように『武衛騒動』というお家騒動があったためなのか、この辺りの斯波氏の家督が入り乱れていまして、結局誰に仕えていたのか照らし合わせてもよくわかりませんでした。多分……斯波義廉か斯波義寛か斯波義達か……斯波義統ではないかと思うのですが、どうだろう?
ひとまず、父は武功も結構たてていたらしく、丹羽家は武衛家によく仕えていたみたいです。対して、織田家……というか信長の家は、清洲織田家(守護代)に仕える家柄なわけです。
万千代が信長に仕えるよう父からいわれてびっくりしているのは、まさに下剋上!の真っ只中にいることに驚いたのかもしれません。
家督である兄に仕えるつもりだったのでしょうが、兄に仕えるのと清洲三奉行とはいえ重臣かつ隆盛を誇り出した織田信秀の嫡男に仕えるのと、結果は置いておいて、万千代にとってはどっちがよかったのですかね?歴史の上での結果的には、兄は早世してしまい信秀の嫡男は後一歩で天下を手中におさめるまでに上り詰めるのですから、まあ後者の方がいいに決まってるのですが……兄に仕えていたらもしかすると、こうやって後世に名の残る武将にはなっていなかったかもしれませんね。


■ 2009/10/25

内容は一応完全に『信長公記』からとったので、信長公初陣はこの通りなのですが……勝三郎については実はさっぱりわかりません。
『池田家譜』によれば、その2年後に信秀に従って星崎城を攻めた時に何やら功があったらしい――ということで、実はそれより以前についてはわかりません。
↓で「13歳には元服しているよう」といったのはここからくるのですが……別に元服していなくても戦場にたつ人はたったみたいなので、本当はまだ元服前だったかもしれません;


■ 2009/09/24

勝三郎が12歳で元服したかどうか微妙です。
13歳には元服しているようなのですが、元服した年齢が12か13かというところまでは、あさおでは追えませんでした。
同様に、信秀の声がかりで元服したかどうか……あってもいいだろうとは思いますが、ないかもしれません。
話の都合上、信秀の一声がないと、母上の一存で『姫若子(長曾我部元親)』のようにいつまでたっても元服しなさそうだったので、結局こうしました。
元服後の名前は、池田勝三郎恒興――信輝という名前も伝わっていますが、もっと後に信長から偏諱されたでしょうし、そもそもこの名前での署名は一級史料と呼ばれるものからは現段階では見つかっていません。ですので、恒興のみで今後も突き通す予定です。


■ 2009/09/23

信秀が語っている「森寺」という人について――
『池田家履歴略記』"Wikipedia"などからご紹介――あさおが不勉強なため;
森寺秀勝(通称:藤左衛門)といい、池田恒興の重臣です。
『池田家履歴略記』によると、恒興母が信長の乳母になったきっかけをつくった人のようです。「寡婦になっちゃったし、吉法師君が超わがままって話なんだけど、試しにやってみね?」……なんて軽々しかったはずはないでしょうが、吉法師君乳母に誘った人だそうです。
"Wikipedia"によれば、元は信秀の重臣だったようで、どうやら恒興母が吉法師の乳母になったことにより、恒興の後見人になったようです――"Wikipedia"が参考にしている文献がどうも江戸中期あたりに書かれたもののようなので齟齬等あるようなのですが、ひとまずこれを引用。
ただし、信秀が傅役を決定したかはわかりません。ただ、この人しか決定権がないと思うので、こうしてみました。
池田恒興が主人公のお話なんだから、重要っちゃー重要な部分なのでしょうが、さらさらと流していただけるとありがたいです。また、この辺りに詳しい方がいらしたら、是非お教え下さい!!よろしくお願い致します。


■ 2009/09/03

勝三郎が生涯の主君を得たのは10歳といいます――「生涯」というにはこの人の場合、微妙なのですが……まぁ生涯ってことで☆
この時、信長と恒興がいかに仲がよかったか――的なエピソードがあります。『池田家履歴略記』によれば、信秀へのはじめての挨拶の時に恒興が身につけていた裃が信長のものだったというのです。個人的には無茶苦茶オイシイお話ですが、真偽は定かではありません。
勝三郎の母(養徳院)が信長の乳母だったからか、勝三郎自身、織田弾正忠家の覚えはめでたかったらしく、13歳(天文17年)の時に信秀に従って星崎城を攻めて武勲があったみたいです(池田家譜)。もしかすると、星崎城攻めが勝三郎の初陣だったかもしれません。が、あさおの都合でこちらでは違う時期に初陣させる予定でいます。その時になったら改めて紹介しますが、予めご了承下さい。
話は変わり、吉法師君――信長の服装については首巻ノ弐でこそっと紹介しているのですが……幼少のみぎりには『じい』からいいつかった格好をきちんとしていそうですが、幼名で呼ばれていた頃でも元服する時期が近くなってきた辺りには個性的な服装や持ち物をするようになっていったのではないか、とあさおは勝手に思っております。
なので「何コレ?」と思われた方がいたら、首巻ノ弐辺りを見てやってください。吉法師君が何を腰に括りつけているかわかるかと思います。
ちょっと言い訳――この時代の元服前のお子様方が、太刀を持っていいのかどうか実は知りません。現代の感覚だと危なかったのではないか、ということで、「元服前の帯刀はダメ」とこちらではさせていただきました。
実は元服前の帯刀はOKだよ?ということがありましたら、是非教えてやってください!!よろしくお願い致します!


■ 2009/08/30

多分なのですが、織田信秀の官位はこの頃には既に弾正忠から備後守に変わっていたかと思います。が、それをするとややこしいことになりそうな気がしたので『弾正忠家』と名乗らせています。
こちらの完全な都合ですが、基本的に信長の家は総じて『織田弾正忠家』といわせることになるのではないかと思います。本当にこちらの都合なので、今回この呼び名が功を奏するかといえば多分否なのだろうと思いますが……おいおい通称に固執(?)した理由がわかるようになればいいなぁ、と思います。


■ 2009/07/09

いつか申したかもしれないのですが……実は、池田恒興の通称(今回の場合は幼名)の読み方が正式によくわかりません。
専門家の多くは『しょうざぶろう』と書いているのですが、池田家文書を保管している岡山大学では『かつさぶろう』といっています。
あさおもずーっと後者だと思っていたので、ある日「あれ?」と戸惑ったのですが……これはもしかすると、織田信長のように女性宛てにあてた手紙に「つね」ではなく「しょう」とかひらがなで書いてり、崇福寺にある現在のところお鍋の方が丹羽長秀宛にしたためたといわれている(個人的には、お濃の方が宛てたと思いたいのですが)手紙みたいに「五郎さへもんとの(確か)」みたいになってるんですかね?……それくらいこの人についてこれからなので……本当に申し訳ありません。
もしかすると、同じ『勝三郎』という字ですが「幼名:かつさぶろう、通称:しょうざぶろう」とか読むのかもしれません――完全な想像です。
というわけで、多くの専門家の方が『いけだしょうざぶろうつねおき』と読んでいるようですので、この人のことはこのように読みたいと思います。少なくとも漢字において、幼名と通称が同じということのようなので、読み方までは現段階ではわからないため、全く同じということで。
詳しい方がいらしたら、是非、ご指摘のほどよろしくお願い致します!!


■ 2009/07/05

あさおだけかもしれないのですが、幼名を名乗っていた頃の信長公は、実は物凄く優等生だったかもしれない――と思う時があります。
だからではありませんが、この辺りでは『湯帷子姿』でプラプラさせておりません。お子様だし、まだそこまでカッコたる信念がないから、出された服をそのまま着せられてもおかしくないだろうなーみたいな。
といっても、これがどれくらいの時期設定にしたかはっきり覚えていないのですが……勝三郎がザンバラ髪になってるところを見ると、5歳くらい?吉法師君が7歳くらいではないかと思います、多分。


■ 2009/07/02

この時代の風俗に造詣が深くないので、正確なことはわかりませんが……少なくとも子供の時分には『おはしょり』はつくるべきだったよね、と気付いたのはこれが完成した後でした……。吉法師のお下がりを着ることもあったという説もある勝三郎なので、2歳のブランクはこの頃はやはり相当大きいかと……となると、本当はおはしょりはかなり重要かと思うのですが、その存在自体をすっかり忘れておりました。
というか、正確にいうと――ここからは完璧な言い訳なのですが――この頃、男性だけではなく女性もおはしょりを腰につくるスタイルの着物の着方ではなかったので、むしろ、帯も細く緩……いわけじゃないですが前で結ぶのがスタンダードでした。ですので、実はアレンジはしていますが、帰蝶姫達は前に軽く結んでいるだけの帯だったりします。横に結んだり後に結ぶというのは、はしたないとされたらしいです。
というところから、この頃は、男女の関係なく打ち掛けも小袖も引き摺ればいーやー、くらいの軽い気持ちでいました。子供版勝三郎の存在はすっかり忘れ去っていましたよ……完璧な失態です。
やってしまったので仕方ありません。このまま全部コレで押し通そうと思います!なので、「あれ?」と思った方がおられても、軽〜くスルーしてやってください。よろしくお願い致します!!
吉法師君の着物のお下がり……自分で書いてなんだけど、今更羨ましいとか気付いてみた……しかも当時の本物の乳兄弟相手に……バカかと改めて思ってみたり;


■ 2009/06/22

池田恒利没後の養徳院の身の処し方には一応ふた通りが考えられている、と申しましたが、ひとつは剃髪して蟄居を申し出て受け入れられたというものと、もうひとつが物語上に出ているような感じのようなもののようです。
この時かそれより前だったかと思いますが、池田恒興には信長同様、傅役が付いたらしいのですが……多分、ちらりと名前くらいは登場させるのではないかと思いますけれど、あさおの実力上の問題であとは割愛します。名前だけでも登場した時に「ああ!」と納得してやってください。一応の紹介はするかもしれません;
勝三郎には傅役がいたのでしょうし、本来ならその御仁のお家に住まうのが一般的だと思うのですが、そうすると話が進まないので、物語上ではどう考えても母と一緒に暮らしていることにしました。
それなら、これからはかなり甘えたでGO!でいいはずなのですが……それだとやっぱり話が進まないので、かーなーりシャイなお子になってもらいました――ってか、想像だけどいきなり「さあ、ママですよvV」ってキレイ(多分)な女の人に現われられても、チビッコは戸惑うのではないかと……どうなんだろう???


■ 2009/06/21

母との縁が希薄だったはずの勝三郎ですが、実は父との縁の方が希薄であったらしく、父恒利は天文7年3月27日、恒興数え3歳の時に他界してしまいます。享年30歳(池田家譜)ということですが……真偽の程は定かではありません。
一応、病死ということになっているようなのですが……何故か、墓所が岐阜県池田町にあるようです。しかもこれまた何故か『美濃三人衆』のあの稲葉一族と同じところに……まあ、ちょっと場所は離れるようですが、恒興・元助親子の墓所(龍徳寺)もあるようなので、アリなのかな?と、わかりませんが。
閑話休題、池田恒興は実質2歳で、父親を失うという物凄い悲しみとどうやら池田家唯ひとりの男子であるという物凄い期待を、その小さな両肩に背負わなくてはならなくなったようです。
この頃、信長は実年齢でいえば4歳ですが、恒興母・養徳院の乳母の立場はそのままだっただろうと思います――ここでマジカルなのですが、信長は大変癇が強く乳母の乳首を噛み切って次々変えていたといいます。そんな中現れた救世主・養徳院の乳を含んだら落ち着いたため、乳母決定と落ち着いたようですが――何で乳兄弟の年齢が2歳差なのか……多分永遠の謎なんでしょうね。あさお的に実は、こんな初っ端から相当なミステリーだったりします。実は、信長がさばよみ?それとも恒興が!?……一番納得いくのは、信長の乳離れが尋常じゃなく遅かったということでしょう。実際そういうお子様もいるようですし。
話は戻ります。養徳院がそのまま乳母だったかどうかについては、諸説あるようです――というか、説としては、あさおがとっているそのまま乳母説と恒利が他界した時に出家した説とあります。
後者をとってしまうと話が続きませんし、今では一般的に前者の方が有力説になっていますので、前者の説を――ってか、甘えん坊の吉法師君が「ヤだ!絶対仏門なんか入っちゃヤだ!」とかワガママいって、髪をおろそうとした乳母の気持ちを殺いだ、とかだったら吉法師君、既に悩殺力バツグン><とか思っちゃいますよね☆←ナニその『悩殺力』って?


■ 2009/06/20

『閑話休題ノ弐』連載開始です。 前述していますが、今回の主人公は信長公乳兄弟池田恒興氏の予定です。

先程も申しましたが、池田恒興は、織田信長の乳兄弟です。
というわけで、おぎゃあの時点で悲しいかな、母から引き離されてしまった御仁なわけですが……そういう意味でいうと、よく信長の方で取り上げられる土田御前との関係よりもはるかに切ないかもしれませんね。
さて、この人の父は恒利という人だったといわれています。
『池田家譜』によれば、「池田恒利は摂津国の滝川貞勝の三男で池田政秀の養子になった」ということです。どうやら池田家は(自称)清和源氏の流れで本国は摂津だったそうです。
――とかいいますが、恒興の池田家の系図については、実は恒興以降からしかはっきりしたことがわかっていないので、他にも美濃や近江からと諸説あります。少なくとも、恒興父の代には尾張にやってきていて織田信秀に仕えていたらしく、恒興自身は信長の乳兄弟です。お気づきだと思いますが、恒興父についても、恒利と通説でいわれていますが定かではないらしいです。後に『西国将軍』とか呼ばれるまでになる池田家、いいのかこんないい加減で!?とか思いますが、如何せん、始祖池田恒興の誕生日が『天文五年某月某日』とかいってるくらいですから、いいんでしょうね……多分、その息子輝政からはっきりしていればオールおっけー♪みたいな……父セツナイ(T△T)。というわけで、こちらでは、池田恒興の父は池田恒利、で通します――
この当時、残念ながら男子に恵まれなかったのでしょう、恒利が婿養子に入って池田家を継いだようです。
恒利と恒興のために養徳院は織田家に乳母として入ることを決意したわけですね〜。夫とお子の出世のためとはいえ、世知辛い世の中だったんですね……
ということで、信長スキーならお気づきかもしれませんし、既に結構いってるような気もしますが、『信長四天王』と呼ばれるひとり滝川一益は池田恒興と従兄弟だったらしいといわれております。となると、今よく巷で聞く稀代の傾奇者・前田慶次郎利益は血縁者になるわけです。
というわけで、こんな感じで物語スタートです!


■ 2008/10/19

Web拍手より――
オマケの2P目を更新しました。
三郎殿は、自分が怒られても反省しないけど、他者が怒たら反省……というのか、やめるタイプなイメージです。
ただ、コレに関しては多分、やめないんだろうなー……ってか、やめなかったみたいですが。まあね、こっそり泳いでいる分には別に気にもならなかっただろうし……ってか、当時そこまで肌露出が気になるようなご時世だったのか、といえば、謎な気もするので、まいっかーってことで。


■ 2008/10/13

Web拍手より――
イラストの方で大分前に暑中お見舞いのイラストをアップしました。それと対になるマンガを拍手に描いていたのを忘れていました。
しかも、オマケまでついていました――まだ1P足りませんが、微妙に続いているだけなので2P更新です。
若思いの平手爺なのでしょうが……ということは、若の小姓にとっては怖い怖〜〜〜いお方なのではないかなぁ?と、実は勝三郎をよく描くようになってから思うようになりました。そこからできてみたり。
池田は尊敬する反面、スゴイ平手爺が苦手かもしれません。怖いから(笑)。


■ 2007/11/18

Web拍手『成政の解』より――
見ていただければわかるのですが、今回の主人公(?)は佐々成政です。いろいろと補足説明をこちらでしたかったのですが、成政の資料がどこいったかわからないよぅ(T▲T)。
信長をはじめ家臣達の資料をちょこっともっているのですが、片付け下手なので出したら速攻で戻す癖をつけています。そこまではいいのですが……そもそもどこが『成政資料の所在地』だったかがわからなくなるという体たらく。頑張って身につけた癖も何の意味もなし;
覚えている範囲では、佐々成政の苗字の由来には何通りかの説があって(その説が今わかりません;)、そのひとつが今回紹介したものだったりするというものです。あと、成政の生い立ちといいますか生年や家族構成なんかは本当にはっきりしておりません。ひとつわかるのは、念願だった嫡男(ひとり息子)を若くして戦で亡くしたため養子を何人かもらっています。家督を継がせるために利家次男と成政の長女か次女との婚約……までこぎつけたのですが、そこからが彼の悲劇のはじまりだったというね。多分、その時には既に成政の運命は(秀吉と利家の中では)決まっていたのでしょう。というようなことではなかったかと思います。


■ 2007/02/05■

夢見がち物語『覇王の血筋』より――
ちょっと補足です。
文中に突然『賤ヶ岳の戦いで勝家が義昭に〜』という文章が出てきます(13P)。実は情報戦でもあったこの戦いでは、秀吉も勝家も双方あっちこっちへ書状を送っています。
「今度、俺はあいつと戦って上様(信長公)の後継ぐから、その辺り四露死苦☆」という感じだったのでしょう(←嘘です;)。その時、勝家が書状を出した相手のひとりが室町幕府最後の公方足利義昭公でした。
「俺が上様の後を継いだら、きっと公方様の時代も復活すると思うんですよー(嘘だけど)」的なことを書いて勝家は送ったのではないかと思います。そりゃもう、腐っても将軍。信長亡き後、そんな人が大々的に登場しちゃったら秀吉の出る幕はなかったかもしれません。
しかし、文中にもあるように義昭が当時いたのは毛利の領地内。対して勝家がいるのは作中では長秀の城のある越前です。今なら新幹線と電車を乗り継いだり車とか飛行機ですぐですが、当時はもう……『秀吉の中国大返し』なんて言葉が残るくらい遠いわけです。
というわけで、義昭がやる気マンマンに立ち上がった時には既に遅かったというお話です。
ちなみに、その後の足利義昭公はどうなったかというと……一応、秀吉にそれっぽく相手にはされましたが、主君の行動を見ていたからなのか、秀吉は義昭に政治面への介入を許すことはありませんでした。知行地を与えられて後、嫌気が差したのかどうかわかりませんが出家、『准三宮』という称号を頂いて、秀吉の亡くなる前年に亡くなっています。
還俗して後は波乱万丈の公方様だったのではないでしょうか?


■ 2007/01/20■

ハロウィンバカ漫画『Web拍手マンガ』より――
信長が盛大にやったというのは、安土城下での左義長のことです。
「左義長とはなんぞや?」と思われる方も多いかもしれません。いわゆる『どんど焼き』のことです。辞書にも出ているので詳細はそちらを調べてみてください。
天正9年に爆竹を盛大に鳴らしながら正月を祝ったとあります。信長も南蛮笠や皮の衣装をまとって登場したと『信長公記』には出ております。こういった賑わいは毎年城下で行われていたようで、現在もそこを由来としたお祭りが『左義長まつり』として近江に残っています。そちらに小唄があるようなので引用させていただきます。
左義長小唄♪
1.(ハァ~) 弥生半ばの左義長祭 (ヨイヨ~イ) 山車が練りだす 賑やかに (アソレ ソーレヤレヤレ チョウヤレトッサジャ)
2.(ハァ~) 日牟禮八幡 城山負うて (ヨイヨ~イ) 火除け厄除け よいお宮 (アソレ ソーレヤレヤレ チョウヤレトッサジャ)
3.(ハァ~) 天下奇祭の左義長踊り (ヨイヨ~イ) 馬場は火の海 人の波 (アソレ ソーレヤレヤレ チョウヤレトッサジャ)
4.(ハァ~) 踊りだしたる信長公の (ヨイヨ~イ) 由緒残した この祭り (アソレ ソーレヤレヤレ チョウヤレトッサジャ)
他にもこの関連の小唄が紹介されておりますので、興味のある方はリンクさせて頂きましたので、是非ジャンプしてみてください。
信長は民衆の心を非常に大事にした、当時の『政治家』としてはかなり稀有な感覚の持ち主だったのではないかとあさおは思っております。皆さんが歴史で習う『楽市楽座』などを見てもわかる通り、かなり視点が民衆向けになっているように思われます。これについてはおいおい語れたらいいなとは思いますが……ひとまず、今回はこんな感じで。
もしか、ハロウィンが信長の時代にそれなりに浸透してたら、織田信長という人は何気に民衆の心を掴むために使った気がします。ただし、そこには『宗教』が前提にあるので、どこまで有意義に使ったかは謎ですが……(私は政教分離の考えを日本で最初に編み出したのは織田信長だろうと推測しております)


■ 2007/01/08■

夢見がち物語『覇王の血筋』より――
前田利家と佐々成政の因縁はかなり浅からぬものがある――と書いた以前どこかで書いた記憶があります。それが実は今回のような事件で幕を閉じます。
作中に佐々家滅亡序曲となった戦いが出てくるのですが、これがあって佐々家は滅亡へまっしぐらに進んでいくことになります。ここから、さらさら越え(ざら越え)などを経て、結局織田信雄の説得で秀吉に下ります。御伽衆になって後、突然大出世のチャンスに恵まれて肥後を任されるわけですが……この肥後での出来事が原因で佐々家は滅亡します。
対して、前田家はこれを機に地力をつけ、利家は秀吉の絶大な信頼を受け『亜相(大納言の唐名。利家は権大納言)』と呼ばれるまでになっていき、前田家自身は、豊臣政権の後の辛い時代も信長に見込まれた二代目利長やその弟三代目利常の尽力で加賀百万石の外様大大名として江戸幕府に権勢を誇っていくわけです。
あさおの中では、佐々の史料の方が前田の史料よりも正しいだろうと思っております。理由は、前田家史料はやはり利家をよく描こうとするだろうということからです。同様に、豊臣家の史料も話半分ということで……
墨俣一夜城の時のように、成政は秀吉と利家の策略にまんまとはまったのだろうと推測しています(墨俣は別に策略をめぐらせてはいません)。九州でもそうですが、成政が最後まで成し遂げられなかったことを秀吉がオイシイとこ取りでもっていっている感が私には否めません。成政はその辺が非常に不器用だったのか不運だったのでしょう。
私の中では、佐々成政ともうひとり滝川一益は織田信長と共に出世し織田信長と共に滅んだ稀代の武将達だと考えています。


■ 2006/11/06■

暑中お見舞い代わりの『Web拍手マンガ』より――
五郎左をこういう位置に置いてよかったのか実は今もよくわかっておりません……言い訳的にいえば、所詮みんな『大うつけ』信長公の近習!一緒に傾いていたに違いない!ってことで……あれ?言い訳というより開き直り?

描いてある通り当時『夏の氷』はとっても高価でした。そりゃそうなんですよ、電気も冷蔵庫もない時代だもん。
ということで、例えばマンガ中みたいに、氷を富士山の氷室から引き出してきたりとかっていうのが平安時代のお公家さんとかの超贅沢だったわけですが……戦国になるとこの領地は今川氏か場所によっては武田氏の位置ではなかったかと。
管理人は歴史もおバカですが地理もかなり怪しいので、富士山の氷室に関してはどこら辺に位置していたかなど全く調べずに「この時代、信長が義元ン家からパクってったら面白そう♪」というだけで描きました。詳しい方には申し訳ありません。
ちなみに、今私達がよく見るガラス細工の風鈴は江戸期からのもののようです。本当かはこれまた怪しいですが、室町時代辺りでは魔よけとして軒先に金物の風鈴を置いたといわれているようです。
音色がよかったから、粋でいなせな江戸っ子たちがいつの間にか、魔よけ⇒夏の風物詩にしちゃったのかもしれませんね☆


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