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Talk 閑話休題01
■ 2006/10/21■

えぇと……本来は前回書いた方が無難だった語りなのですが、忘れちゃったのでこちらに――通称にはよく奇数の名前が使われています。「何で?」と思われる方も多いかと思いますが、これは割ることができないということから縁起が良いとされていたようです。中でも最も縁起よしといわれていたのが『3』――ということで、三郎という名前は縁起のいい名前なわけですね!
……でもさ、2で割るなら割れないけど、3で割れば割れるよね、9はさ(笑)。確かに、素数は奇数側のが多いですが。
(例外はもちろんあります。現在本編で登場している人物でも、明智光秀⇒十兵衛、柴田勝家⇒権六、前田利家(犬千代)⇒孫四郎、織田信勝(信行)⇒勘十郎など)
話は変わり、『ふたりの嫡男』はひとまず終了です。
「え?何だコリャ!?」と思われる方もおられるかもですが、ニュアンスと心意気で受け取ってください!(←無理難題;)
個人的に、信秀氏の嫡流ふたりの育て方の違いが気になって仕方ありません。
何故、嫡子は『うつけ』と後世まで轟く人物に育ち、その同母弟は『優等生』として育っていったのか。これは諸説ありますが、この物語上で――何故、兄はとっとと親元を引き離されたのに、弟は自身が死ぬその日まで親と一緒にいたのか、等々……信長と信行だけでいくらでも話を妄ソ想像できるくらい謎だらけで興味津々です。
というわけで、今回の物語ではこんな感じです。おそらく、このふたりの関係については、信長関連に興味を持たれた方それぞれに意見が分かれるのではないかと思います。いろいろご意見など伺ってみたい気も致しますが……このマンガ読んで怒らないでやって下さいましねー><
ちなみに、織田信秀という人は、嫡男信長がどれだけの『大うつけ』であっても廃嫡したという形跡がないといわれております。度量がデカイお人だったのか信長に賭けていたのか信長のことをよく知っていたのか、はたまた父自身がうつけていたのか……やっぱり謎多き家系です(笑)。


■ 2006/10/14■

織田弾正忠家の嫡男が代々『三郎』という通称を付けられていたかというのは、ちょこっとあやしい記憶ですが、確か信長じいちゃん以降はそのはずです(ってか、はっきりしてる信長家系図ってじいちゃんからだよね/笑)。祖父⇒父⇒本人⇒孫と一応三代続いてるので『代々嫡男は三郎』ってことで。
信長命名の経緯を母は知らないかもしれませんが、吉法師が『三郎』と名乗ると決定した時、こんなうつけた嫡男ということで、どれだけの衝撃だったでしょうね?土田御前の将来への心配はとても大きかったのではないかと思います。
さて、この『三郎』という名は代々織田家嫡男がと書きましたが、この後、不思議なことに信長の嫡男は『三郎』を名乗りません。何故でしょうね?謎です……が、何より謎なのが、この『三郎』とつく通称をもつ人物が信長のお子の中にひとりだけいることです。その人の通称は『源三郎』。
『三』の付く通称を持つお子は結構いますが『三郎』を冠した人物はどうやら今のところわかっているのはこの人だけです。これ如何に!?
この人の名は織田勝長といいます。結構数奇な人生の後、若くして兄と共に二条御所で討死するのですが……果たしてこの人物は何故ひとりだけ『三郎』をもつことができたのか、思いっきり他の側面からというのが正直なところですが、実は今、あさおの興味を引いていたりします。


■ 2006/10/13■

ダラダラ語り追記。
↓に書きました、『信長』命名について、何故、信長と扶桑が反切というもので一致するのかわからない、と書いたところ、メールを頂きました!ありがとうございますー><
反切というのが、反切法という発音の仕方?らしいことまではわかったのですが……そもそも『信長』を『のぶなが』と読んでいた私が間違っておりました。とってもわかりやすかったので、以下は、メールを頂いた方のものを引用させて頂きます。
「音節の組み合わせなんです。
2文字の感じで表すのですが、
信=shin
長=chou
これを反切法で組み合わせると「s」「ou」の組み合わせになるんです。
一文字目の頭の子音と二文字目の韻を組み合わせると思えばいいです。
そうすると、「sou」という音になるので、「桑」にあてたんですよ。
だから、唐突に「扶桑」が出てくる訳です」
うおおお!何てわかりやすい説明でしょう!私でもわかりました♪本当にありがとうございました!!!

そこで「何故、唐突に『扶桑』が出てくるんだろう?」ということで、古代中国スキーに聞きました。すると……『桑』の話までしたら途端に「ああ!扶桑ね!!ってことは、信長って日本統一じゃなくて世界統一ってことだ!」とあっさりでした。「ええ!?」と驚くあさおに相手曰く「おそらく和尚は、『扶桑』のソウを『桑』に連想させたのだろう」だそうです。
↓にも書きましたが、その人がもっとわかりやすく教えてくれたので改めて。
古代中国において、太陽の出るところとその根元にある木を『扶桑』といったといいます。そのため、日本は『日ノ本』の国というところから古来より『扶桑』になぞらえられていたのだそうです。
ということで、沢彦和尚はこの時、信秀公に「日ノ本の国を統べる人間にふさわしい名、それが『信長』という名前です」といったのだろうといいます。
知人曰く、ただ『扶桑』だけだと、グローバルに『世界』まで見ることができるが、この場合はそこまで見なくて『日本』で留まっていたかもしれないということです。や、わかりません。思いっきりグローバル社会いってたかもしれませんよ、信秀公は☆
というわけで、信秀公が「いい名前じゃん。これに決定☆」というその先には「信長よ、天下統一はおまえに任せた!」という遠大計画があったような気が致します。
それにしても、名前負けしなかった織田信長って……やっぱり偉大だ><
ちなみに私は「桑?カイコに食われて終わりそう……」とうっかり間違った見解を浮かべました。そこが凡人と偉人の分かれ道かもしれません(笑)。

余談ですが、この扶桑にまつわるお話に、かつて太陽は10個あったという神話があるのだそうです。その10個の太陽達が交代で昇っていたのですが、ある日いいます。「ひとりで昇るのつまんなくね?」「だよねー。じゃあ、みんなで一斉に昇ってみる?」「ナイス!楽しそうじゃん♪」というわけで、10個の太陽達がいっぺんに扶桑から昇りました――太陽達は実に大はしゃぎだけど、地上は暑いの何のって……尋常の沙汰ではありません!皆が困り果てていると、そこに『げい(難しい字らしい)』という弓の名手がやってきて、大はしゃぎの太陽達を射殺しはじめました。
はしゃぐ太陽達を射抜いてくれるのはとても助かりますが、げいは弓の名手なので絶対外すことははいでしょう。全員を殺されてはたまりません。こっそり一本だけ抜き取りました。これにより、今あるように太陽はひとつだけになったのですが……実はこの太陽達、天帝のお子達だったのでさあ大変!
子供達を殺され悲しいけれど、子供達にも非があります。さりとて、諭してくれればどうにかなったじゃん的思いもなくはない天帝は、結局、げいが持っていた不老不死の力を抹消し妻諸共天界から追放します。
それに嘆き悲しんだのは、げいの妻です。それまで天界でウハウハ楽しんでいたのに、いきなり地上に落とされ挙句に不老不死ではなくなりました。ちょっと待ってよー、と妻が思っても仕方がなかったでしょう。
そんなある日、西王母から不死になるならふたり分でOKという薬をもらいました。それを貰って大喜びしたげいでしたが、納得できなかったのは妻です。妻はかつてのように不老不死でいたかったわけです。というわけで、さっくり夫を殺しひとりだけその薬を飲んで天界に飛び立ちます。
ところが、彼女が行けたのは天界ではなく月まででした。その時の彼女の姿が蛾の姿であったため、今でも中国では『月に蛾がいる』といわれるのだそうです。


■ 2006/10/10■

以前話した『信長』命名に際して沢彦宋恩和尚のことを語りました。その時、物凄く曖昧で、父信秀氏にどう説明したかはっきり覚えていないとも語ったのですが……本日、信長関連ニュースを検索していたら、和尚のことを描いた小説の書評を発見致しました(詳細は『盟―織田家臣団同盟』のTOPICSをご覧下さい)。一部抜粋させて頂きます。
「吉法師13歳の元服に、唐の反切という故事に則(のっと)れば扶桑、すなわち日本国にも通じ、天下取りを志す者には格好の名と「信長」の名を撰する(産経新聞)」
『政秀寺古記』という古書に載っている一説であることがわかりました!!物凄いよかったー><夢幻じゃなかったよー!!!←本気で覚えていなかった。
この史料、実は今すっごい読みたい史料のひとつです。多分……政秀寺にあるのかな?少なくとも、成田山仏教図書館には所蔵されているようです。


■ 2006/10/01■

どこかに語ったような気はするのですがもう一度。
織田信秀嫡男吉法師は13歳の時に信秀居城古渡城(今の東別院)で元服します。この時、後見人に4人の人物をつけられたと『信長公記』には書かれています。後見人についてこの4人が本当に家老職の人間であったのか否かについてそれなりに議論の余地ありとは思いますが、基本はあくまで『信長公記』ですので、このまま4人のおとな衆をつけられて吉法師は元服――ということで。
これも語った記憶がありますが、再び。吉法師父信秀は権威も権限も地に落ちていた朝廷を尊敬した稀有な戦国武将でした。個人的に、信秀の考え方は多分に息子に影響を与えたのではないかと考えています。


■ 2006/09/30■

『帰蝶』内に出てくる熱田神宮について――
熱田神宮といえば『三種の神器――草薙ソード(草薙剣)』を祭っている神社です。熱田神宮は、古くから尾張(東海地方)の人達の信仰の中心といわれていますが、当然のこと、日本全国の信仰の中心でもあります。
さて、この神社と信長――というか織田弾正忠家は結構関わりが深く、ここの神事を執り行う宮司が家臣であったりしています。中でも一番有名なのは多分、信長出世の戦『桶狭間の戦い』に登場してくるシーンでしょう。戦いに際し、熱田神宮にかつおを奉納し、その後、何だか神がかり的なことが起こり……結果、信長は今川義元を倒します(物凄い端折り方ですが、この話はその時に)。後に信長はここに『信長塀』と今に伝わる塀を寄贈しています。
他にも既に物語上に登場していますが、丹羽長秀が妖刀に憑かれた時にこちらに預けており、それが今も伝わっています(そういえば、妖刀の元の持ち主が宮司さんですね。おやまあ、何の因果☆←関係ない;)。
熱田神宮の詳細についてはリンク小屋に神宮のリンクを貼らせて頂いているので、興味を持たれた方はそちらをご覧下さい。


■ 2006/09/24■

信長の母は『土田御前』と呼ばれていた人で名前は伝わっていません――というところまでは多分語ったのではないかと思います。この人が生んだ正確なお子の人数はよくわかっていません。信長と信行のふたりとも秀孝あわせて3人とももうひとりいるとももっといるともさまざま……それはもう、信秀パパが子だくさんなせいでしょう。土田御前が寵愛されていた証拠でもあるかもしれません。
確実なことは、織田信長と織田信勝(信行)の実母である、ということだけです。
こちらでは、信長・信勝・秀孝3人が同母兄弟ということにしています。
信長と土田御前との間には、物凄い確執があったといわれていますが……本当のところはどうなんだろう?と管理人的には謎です。や、諸研究家の方々の見解が嘘だと思っているわけではないのですが、別にそこまで確執があったわけではないのではないかな〜とね……という辺りとか今度描けたり語ったりできたらいいな〜と思います(←一番は描けることです)。このお話はその時にまた。


■ 2006/09/19■

あら……昨日語っちゃったのねぇ、喜六郎クンのこと。
まあ総集編は改めてと↓で申していますので、またバラけたことを。この人の年齢が微妙です。信長公記を鵜呑みにすると織田信秀の息子として何番目なのかがわからなくなってしまうというね……一般的には『信秀八男』とされています。
彼に限りませんが、信長自身の誕生日がよくわからないだけあって、その親族はかなりいい加減な織田さん家です。
信長もだけれど、信秀も大概子宝に恵まれすぎなところが問題かもね〜みたいな。いや、一番の問題はそこではないと管理人的には思いますが(笑)。


■ 2006/09/18■

はい、『信長』の名前の由来のお話はこんなカンジでした。
微妙な記憶なのでサラリと流します。ひとまず、こんな逸話がありましたよ〜とね♪
さて、本編では名前しか登場しておらず、多分登場しても可哀想な事情でしか登場予定がなさげな『喜六郎』クンです。元服名は秀孝といいます。彼も勘十郎と同じく、幼名が伝わっておりません。これは別に信長に謀反をはたらいたからではないとは思いますが……本編に登場すると思いますので今回はナイショ☆ということで。
喜六郎クンは信長の同母弟です。詳細は機会があればまとめて書くこともあるかと思いますが、彼についての『信長公記』の記載は美形家系の織田サン家の中でも彼が群を抜いて美形であったことをあらわしているらしい記述となっております。というところから、まだ幼い喜六郎クンですが、口紅塗ったみたくにしていたりします。ので、そこの方、サーっと引かないでやってくださいましなのです〜><


■ 2006/09/12■

以前お話した沢彦宗恩和尚のもうひとつの『名付け親』はこれです――織田信長の『信長』という名前はどうだろう?と提案した人といわれています。
物語ではかなりあやふやな説明をしておりますが、それはこの話を読んだ時、私があまりよく理解できないまま、どこに出展されていたのかを忘れて再確認できなかったからです(←なら使うな;……どうしても使いたかったんです)。
ですが、実際に次ページに紹介される予定の逸話が残っているようです。
ここからの記憶はかなりいい加減なので、よくご存知の方がいらしたら、出展元共々是非ともご教授いただきたいので、よかったらよろしくお願い致します。
というわけで、あやふや記憶では――信秀公が吉法師の元服時の実名(『信長』という名前のこと)について和尚に相談したところ、この名前がよかろうと和尚が提案。その字を見た信秀公は植物か何かに例えたか何かして「我が家が傾くのでは?」と不安になったという話でした。それに対し和尚は物語のようなことをいって信秀公を安心させた……という話だったと記憶しております。


■ 2006/09/10■

信秀氏がいっております『虎』――人物紹介を見ていただければわかるのですが、信秀氏自身が『尾張の虎』という異名を持っていたところから引用です(笑)。
さて、信行のことですが……幼名が伝わっていません。あんまり詳しいことがきっちり伝わっていないのはこの人が信長に謀反を起こした人だからでしょう。とても残念なことです。
えぇとね……気づいてもらえる人がいたらとっても嬉しいのですが、実は吉法師の後ろに笑顔でくっついているチビっ子は勝三郎なんですよ。この人は10歳の時に信秀氏の指示で信長の小姓にあがったと伝わっています。が!乳兄弟ですからソレよりもっと前から遊び仲間だっただろうとは推測にかたくないかなぁ……みたいな。この後にもチラっと登場するシーンがありますが、それに気づいた人は勝三郎フリークです!(←本当か?/笑)


■ 2006/09/09■

信長、といえば結構すぐ出てくる武器のひとつが『鉄砲』なわけですが、中学の時とかに歴史の時間に習った通り、彼がいっている『鉄砲』とは『火縄銃』のことです。
火縄銃の詳細については詳しくないので省きますが、1543年うっかり種子島に漂着した船にあったものが日本に伝わった最初だといわれてきました――が、最近ではおそらくそれよりもせめてもう少し前から日本に伝わっていただろうというのが有力な説です。
どっちみち、信長が鉄砲に目をつけた時期はかなりはやいことだけは事実です。先見の明なのか結果よければ全てよしなのかはわかりませんが……とにかく若い時分から、槍の長さや陣形と並んで興味の範疇に入っていたのがこの火縄銃であったと伝わっています。


■ 2006/09/08■

織田弾正忠家ご一行が揃ってみました……このご一家、前にも書きましたが、美形という伝説アリ。無理だっつーの!――と改めて愚痴らせていただきます。でも、これでも「美形美形」と暗示をかけて見てください。よろしくです☆
信長の『うつけ行動』については、実のところよくわかっていない――という話は以前したような記憶があります。
この「よくわかっていない」というのは、理由もなのですが、はじまった時期もわかっていなかったりします。
子供の頃から奇行が目立ったお子だったとも元服して以来とも、他にも諸説あったりします。
はっきり覚えていないのですが、元服するまでは平手のいうことをきちんと聞くいい子だったという説をどこかで読んだことがあります。問題はどこでだったのか忘れたことなのですが……それが本当なら、預けられた寺でもきちんと説法を聞いて学んでいたのかもしれません。
が!物語的にそれでは信行と大差なくなってしまうので、信長氏は子供の頃から傾いたお子設定です。
さて、ここに出てきました通り、織田信長という人は大変スポーツマンだった人で、若い頃遊ぶかわりにあれこれ運動しまくっていたようです。そのひとつが水泳。
旧暦ではありますが、3月〜9月までほとんど毎日泳いでいたようです。他にも、乗馬、鷹狩などなど……とにかく自分をいじめることを好んだといいます。
実はこれにはきっちり裏があるとも考えられています。その真意はわかりませんが、若い時分体鍛えまくるから、偉くなっても超健脚だったのでしょうね。


■ 2006/09/07■

出て参りました、信長の逸話です。
本当に乳首を噛み切られたらたまりません。さすがにそれはなかっただろうとは思いますが、吉法師君はとにかく癇の強いお子だったようで、乳母が手を焼き次々替わったようです。
ここで登場した『池田恒利』氏は実は池田家の婿養子。元は滝川家の人だったといわれております。つまり、家付き娘だったこの『妻』が本編に登場している池田勝三郎の母なわけです。前にもいいましたが、勝三郎は信長の2コ下です。つまり、数え年3歳まで吉法師の乳母騒動はやまなかったことになります。あらまぁ驚いた☆
乳母池田氏についてもいろいろあります。またそのうち語る機会もあるかもしれません。そんな折がありましたら、以前語りましたが、恒興共々改めて語りたいと思います。


■ 2006/09/06■

今回チラリと名前だけ出てきました『沢彦宗恩―たくげんそうおん』という和尚については軽〜くどこかで語りました。実はあまり詳しいことを知りません。調べてもよくわかりませんでした。
ですのでここでは、『信長の家庭教師』で『岐阜』『天下布武』の名前を提示した人(といわれています。が、現在は諸説あり、本当のところはよくわかりません)くらいに留めておきます。物語がもう少し進むと、もうひとつ『名付け親』として登場しますが、それはその時に。
沢彦和尚の詳細を知ってらっしゃる方がいらしたら情報プリーズです。


■ 2006/09/05■

今回は『閑話休題』(←本来の意味と使い方が違いますが、ご愛嬌です)、所謂『番外編』です。
番外編ですが、夢見がち物語とは違い本編とも繋がってはいます。
以前……いつだったっけ?首巻ノ弐辺りでいった記憶があるようなないようななのですが、信長母子の話が微妙に絡んできます。微妙という辺りがまた微妙なのですが……

お馬鹿マンガ(↓)で書いた記憶があるので信長の誕生日説等についてはそちらを参照していただくとして、信長が生まれた時、父信秀氏は実際こう叫んだという逸話が残っています。
「ますらおってアンタ……」とかって思ってはダメです。思っちゃいましたが(笑)。
信長の上にはひとりないしふたり兄がおり姉もいたのですが、正妻から生まれた『嫡男誕生』が本当に嬉しかったのでしょう。信秀パパ大はしゃぎ♪というところでしょうか?でも、ますらおって……
信長が那古野城城主になった時期については実ははっきりしておりません。
一説には作中の通り生まれて間もなく、他の説では9歳くらい、まだ諸説あったりします。信長スキーの方はご存知でしょうが、そうでない方はまちまちだと思う、信長と母の確執もどき等々を考えた時、あまり長く同じ城内にいなかったか……別の理由が考えられる(徳川三代将軍みたいな例)かとは思います。
が!ひとまずウチでは、吉法師数え年2歳で父の思惑により、元今川氏の居城であった那古野城を守ることになる、ということで。


■ 2006/06/21■

『Web拍手マンガ』より――
信長の生年等については諸説あります。ここまで有名な人が何で……とは思いますが、まあ仕方ありません。
そういう意味でいえば、既に出ている勝三郎氏の誕生日は確かよくわかってなかったと思うし、犬千代も一般的には12月25日といわれていますが8月説というのもあります(先述した通り、生まれ年もちょこっと曖昧です)。だけではなく、帰蝶は生まれた年から怪しいわけですし、成政や光秀もまた然り……
これから出て来る家臣団の多くもそんな感じです。ひとまず何年生まれというのだけははっきりしていたりするケースがあったりとかね。
これは、マンガで描いてある理由が原因なのかな?とは思いますが……それにしても、家臣ならいざ知らず、何で織田信長公自身が曖昧なんだろう?と、よりこの人の謎を深めていたりするかもしれませんね。


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