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Talk 一巻04
■ 2011/02/18

ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます!!!
やーっと終わりました!何とか、1年はかかりませんでしたけれど、ギリギリいっぱいでした。
信秀公の命日までには何とかなりますように!と本当にいっぱいいっぱいな願いだったのですが……どうにかなって、よかった〜☆


■ 2011/01/09

信秀が巻いている鉢巻は、一応紫色の予定で巻いております。
これは『病鉢巻』といって、平安時代とか昔からあったものだそうです。
かつて紫色を出す染料は薬草(名前は忘れました)からとり、この薬草が頭痛とかに効き目のあるものだったため、病気平癒としてこの鉢巻が登場したそうです。
また、紫色は大昔(聖徳太子の冠位十二階とかね)から、高貴な色とされてきました。尊い色のものを身につけるといいということで、こういうものが登場したともいわれているようです。
病鉢巻の結び目は絶対左側になくてはならず、右側にあると……喧嘩鉢巻だったかな?ということで、元気すぎることになってしまうらしいです――江戸時代の歌舞伎『助六』がこれを右に巻いたことにより「粋だね」ということになったそうです。粋かなぁ……あさおにはよくわかりません。
あさお自身は「病気のときは平癒祈願のために左側に結ぶ」以外をまともにしらなかったので、由来は大体上記のことでいいのだろうと思います。興味深かったのでこちらをご紹介いたします。そうか……老人になると、紫が黒に変わるのか……となると、信秀は当時としてどっちなんだ!?←いや、歌舞伎のお話なんですけどね;


■ 2010/12/26

佐々成政の家は何だか微妙にややこしく、最初から信秀だけに仕えていたわけではないようです。
理由は多分、地理的な問題なのでしょう――多分ですが。
この頃になると、だんだん弾正忠家への忠誠を優先し出したのかもしれません。『小豆坂の戦い』で長兄・政次と(多分)次兄・孫介が活躍、『小豆坂七本槍』と呼ばれる7人の中にふたり入っていたりします。
はっきり言い切れない可能性の方が高いのかもしれませんが、この頃佐々家は『岩倉』織田氏(尾張守護代)に仕えていたらしいという……岩倉の後見もしたらしいという『犬山』織田氏と共に、弾正忠家を亡き者にしようと……もっとずっと?後になりますが、するわけです。
ぶっちゃけ、そういう風にしてしまうと、この辺りのネタがなにもない的な……ということで、むちゃぶりをしてみました☆
ちなみに、上記の七本槍、どうやらこの『小豆坂の戦い』が最初ということです。何かで読んだのですが……何で読んだのか忘れてしまいました。ごめんなさい;


■ 2010/12/12

ここにいきなり登場しましたるは、信長の従兄弟にあたります織田信清です。
信清の父信康は信秀の兄弟にあたり、別段弾正忠家に反抗的な御仁ではなかったようなのですが、息子信清は自立したかったのでしょう。実はこの後に信長に反抗的になっていきます。
こんな時分から反抗的な人だったかどうかあやしいのですが、物語的にいろんな意味で面白そうなので、こんな早々にヤなやつになってもらいました。
細かいことは後々語るかと思いますが……っても、そんなに語ることも多くない人なのですが、ひとまず、生まれた時期が例の如くわかりません。なので、信長イトコとはいえ従兄なのか従弟なのかさっぱりです。何となくですが、あさお的に従弟な気がするのは……どうしてか信勝とダブるからかなぁ……


■ 2010/12/05

マンガ、『帰蝶―一巻ノ肆』、アップです。
ダラダラ語り。
柴田勝家といえば、『信長四天王』筆頭としても挙げられる織田信長家臣団の中でも丹羽長秀と並ぶ(といわれるらしい)家臣です。
もともと父信秀の家臣であり、実弟信勝の守役となり、後に信長の家臣になるという……微妙に譜代?いや多分大分違うのですが、とにかくもともと信長に仕えていた人ではありません。
柴田氏というのは、尾張の守護武衛(斯波)氏の流れを汲むといわれており、自称かもしれませんが清和源氏の流れを汲む家柄です。
勝家については、豊臣秀吉に真っ向から対立した武将なため、資料がほとんど残っていません。武衛家の流れということで、多分尾張出身でいいんでしょうね。信秀にはじめから仕えていたっぽいですし。
この人は信長家臣としてももちろん有名ですが、戦国時代絶世の美女といわれた信長の妹・お市の方の後添えとしても有名な人です。この話については改めて語ることもあるかもしれません……多分ですが。


■ 2010/11/28

勘十郎の相手も決まったわけですが……実は、織田信勝が妻を娶った時期はわかっておりません。
一説によりますと、織田家というのは奥の事柄を基本的に残さなかった(らしい)一族なのだそうで――だから、濃姫とかのこともほとんどわかっていないのだそうです。
濃姫ですらそんななわけですから、信勝妻とかわかるはずもなく……というわけで、テキトーにこの辺りで勘十郎には結婚してもらうことにしました。さすがに、信長の都合で「この人を正妻にしました」というのは個人的にあまりにあまりな気がしたので、信秀パパが決定!ということで……実際もそうだったんじゃないかと思うのですが、どうでしょう?
ちなみに、正妻には荒尾御前か高嶋局という女性がなったと、ふたり候補がいるようです。


■ 2010/11/08

ダラダラ語り……というより言い訳に近いかもしれません。
犬千代ですが――ご存知の通り、後の前田利家です。
前田利家といえば、まあいろいろ逸話はありますが、逸話ってかなんていうか、とにかく知られているのは、デカかったってことです。180cmは越えていたとかいなかったとか……意外とデカイ人が多い戦国時代ですが、やっぱデカいです。
さて、彼が出仕した時点でデカかったかどうか……わかりませんでした。もしかしたら、既に長秀とかさくっと抜いていたかもしれません。が、それではナンデかつまらなかったので、この時点ではまだちびっ子ということで。
つまらないって言い方はちょっとヘンなのですが、この人は信長の寵愛を受ける人なので、なんとなく絵にならないし〜とね……実際、そういう話を盛り込むかは現段階ではさっぱりなのですが。
まあ、育ち盛りってことで、この時はまだちびっ子です。なので、濃姫の杞憂もあながち杞憂ではない、みたいな。実際は、『槍の又左』とかぶき者で通るわけですから、本当に杞憂なわけですが☆


■ 2010/10/16

当たり前といえば当たり前なのですが――その人の立場というのでしょうかね、打掛が立派とかで決まっていたみたいです。
……とかいいますが、この物語の中ではあんまりそういうことを気にしておりません。勝三郎達が着ている着物と同じ柄を三郎が着ていたりとかね……小春なんて着たきりすずめだしね〜。
これまた当然ですが、小姓や侍女を連れて歩いていたりしたら、身分の高い人です。
……っても、その国で一番身分が上!とかじゃないですよ。何せ三郎や帰蝶が連れて歩いていますから……ある程度の身分の人達が連れて歩いている、という方が正しいのかな?
細かいところまで手が届く――というのが、小姓の基本だったみたいです。信長後期に小姓として活躍する森蘭丸という人は、まさにこれだったといわれています。


■ 2010/07/11

織田信長の趣味(?)といわれているもののひとつが、馬駆けです。とにかく、馬が好きだったみたいです。
他にも、鷹狩り、相撲、武術(弓や槍など)、水泳、幸若舞などがあります。
専門家にいわれているのは、信長の趣味は、趣味というより実践に即したものだったようだ、ということです。
個人的に水泳がどう実践的なのかよくわかりませんが、他のものは(相撲・舞は置いておいて)、確かに相当実践的なものかなぁと……
現代のメタボリック・シンドロームとか全然心配することない状態ですよね。この趣味に付き合わされていた家臣達も、相当健康的でガッチリ系だったかもしれませんね(笑)。


■ 2010/05/30

前田利家(この頃は、犬千代)は、元服前に出仕していたそうです。
よく信長の衆道相手として前田利家ともうひとり出てきますが、この衆道は元服前の小姓を相手にしていたのだそうです……いうわけで、犬千代時代の話のことが『亜相公御夜話』に出ていたりします。仕えて一年くらいで元服していた記憶があるので、結構短時間の出来事だったみたいですね☆
ということで、犬千代の出仕についてはいいのですが……弟・藤八については同時に出仕したかは……てへ☆
生年がわからないこの人ですが、多分利家とそう変わらなかっただろうと――勝手にしました。なので、一緒に信長に仕えさせることにしてみたり。
兄が兄だからなのか、どうもこの人はおとなしく物凄い真面目な印象があります。なので、今後登場する時も、犬千代と対比されるような(方向性としては、信兄弟とは違うと思いますが;)カンジになるかなーと……多分だけど


■ 2010/05/29

織田信勝結婚について……ぶっちゃけ、いつ結婚したとかさっぱりわかりません;
実のところ、信長と濃姫の結婚も諸説あって、その中には果たして本当に結婚していたのか!?みたいなのもあるくらい、織田家あやふやだったりします(TT)。
あさおの想像ですが、信長の代になって信長の命によって結婚とか、これからのことを考えるとあり得ねぇよな、みたいな。
信秀パパの命あってこそ、信長にしろ信勝にしろ、政略結婚したのだろうと……
ウチの勘十郎殿は、実兄の奥さんに横恋慕している(しかも、相手にされていない><)という残念な状況にいるので、今後どうなることやら……予定としては特にどうもないのですが、それじゃああまりにつまらないので、もしかしたら何かあるかもしれません☆


■ 2010/05/19

信秀パパは子だくさんです。
信長のように、いつ生まれたかはっきりしている子供は、ぶっちゃけいないといって過言ではありません――生年がわかっている人はちょびっといますけど。
ですので、ここで信光が紹介している事柄があったかどうかなんて、さっぱりわかりません。とにかく子だくさんの武将なので、あってもいいかな〜と……実際あることはあるのですが、それはまた今度。多分……


■ 2010/05/16

ここに登場する文書によって、信秀の死亡年を推測しているケースもあります(これだけが理由ではありませんが)。
といいますのも、織田信秀は3月3日に病死していることだけは確かなのですが、何年というところが不明でして、天文18、20、21年と、3つの説があるわけです。
おそらくですが、最近有力なのは、天文21年死亡だと思います――が、こちらの都合で信秀パパはウチでは、天文20年死亡にさせていただいております。
都合は都合なのですが……これをすると結構この後のつじつまが微妙になってくるんですよね; ……ということに最近気づきましたが、まあいっか☆
話はずれましたが、ここで紹介されている判物の中に「備後守任判形之旨(備後守=信秀のいうとおりにヨロシク)」という文章があり、どうやらこの時点ではまだ信秀は存命だったっぽいということで……ただ、この時信長がコレを出している以上、この時点(天文19年12月)には既に、信秀パパは体調を崩していたのではないか、という考えもあるようです。
有力説は有力説として、信秀パパは結構あっという間に病気になって亡くなったということなので、あさお的に天文20年に亡くなった説をとっております……ってアレ?もしかすると、この部分は微妙にねたばれ(!?)かもしれません☆


■ 2010/05/05

大分前に一度語ったかもしれませんが……逸話として、信長発濃姫経由で父斎藤道三の家臣が道三を裏切ろうとしているという情報により、裏切ろうとしていた家臣を道三が殺した(所謂、信長の策略)、というものがあります。
これはあくまで逸話であって、おそらく本当にあった話ではなかったのでしょう。どういう経緯で道三が殺したとかその後どうなったとか、尻切れトンボにさっぱりわかりません。
仮に本当にこういうことがあったとして――ということで取り上げた逸話ですが、上記の通り経緯等がさっぱりわからないので、こちらも「どうしよう……」みたいな。
いくら天下の織田信長っていったって、この時まだ若造です。相手にしているのは、三梟雄のひとり斎藤道三です。非凡でも若造は若造、どんなに策略をめぐらせても、相手は策略の天才(?)なわけですから、どう考えてもさっくり騙されたとは思えません。
……というわけで、この物語ではこういった結果になりました☆
これを読んだ方の中でももしかすると大半が「おいおい」と突っ込みを入れられるかと思いますが……考えに考えてこんなカンジにしてしまったんだな、馬鹿者が――みたいに、あたたかく見ていただけると嬉しいです。


■ 2010/04/29

一応、いい雰囲気になりつつある?勝三郎と小春ちゃんです☆
さて、ここで勝三郎が食べたがっている団子について――みたらし団子です。
今では普通に売っていて誰でも食べられるお団子ですが、元は京都の下鴨のお店が発祥なのだそうです。詳しくはWikipediaをご覧ください。
現在食べられているものと団子の数がひとつ多いとか少し違うみたいですが――本場は今でもその形であるみたいに、愛されているお団子みたいです。
斎藤道三は山城出身といわれていますが……実際、この団子を食べたかどうかはわかりません。食べて美味しかったからと、美濃までデリバリしたとかわかりません。だったら、いいな〜と……届ける側が無茶苦茶大変そうですけどね^^;
当時と今では、味とかも微妙に違ったんでしょうかね?……あさおの大好きなお団子のひとつなので、是非、発祥の地のものを食べてみたいと思います♪


■ 2010/04/11

織田信秀が嫡男信長の廃嫡をした様子がない――ということは前回ちょろりと紹介しました。
だけど、「大うつけ」と民衆にすら馬鹿にされていた息子を、何で廃嫡しなかったか、なんてことについてはわかりません。当たり前っちゃ〜当たり前なんですけどね; 諸説諸々あるようですが、どれも歴史家や小説家の先生方の想像の域を越えておりません。
諸説ある中で多くの人達が唱えているのが、今回あさおが描いたみたいなことではないでしょうか?……あさおの知る範囲で、こういってる専門家が多いと記憶しております。
実際、信長の器について、どこまで信秀が信用していたかわかりません。ただ、息子が家臣を連れて、うつけたことをいろいろやらかしていても、若気の至りとばかりに野放図にしていた辺り、信秀自身が相当器が広いオヤジ殿だったのでは?とか、勝手に思っておりす。
というわけで、この辺りについては、信長スキーにとってもいろいろ思うところがあるかと思いますが、今回のこの話ではこんなオヤジ殿の考えってことで……それについては、信勝が必死に心の中で問いかけている事柄もそんなカンジってことで☆


■ 2010/04/09

さて、大分前から語りナシにしておりましたが……ひとまずここでまとめて。
ご存知の通り、織田信長といえば家臣に相当信用されていない跡取りでした。そういう意味でいうと、傅役である平手爺は大変だったんでしょうね。
それに引き換え信長の同母弟である信勝は、家臣達からも信頼される若殿様だったそうです。作中にあるように素晴らしく立派な人だったみたいです。
そうなるとある意味当然のように、信長廃嫡論とか出てくるでしょう。残念なことに、どうやらこの時期織田家中で何気にそんな話が出たとか出ないとか……信秀の弟達にとっては、自分の方が実力等あるのに、あんな馬鹿殿かよ!とかあったかもしれませんね。
――というわけで、弟達がある意味一致団結して、家長である信秀の元を訪れ訴えてみたわけですが……どうも実際の信秀には信長を廃嫡しようとした様子がありません。この頃、織田家の嫡子だけが受け継いできた『三郎』という通称を、信長は元服した時点から名乗っています。ということは、『大うつけ』と尾張中でいわれていた時点で既に、信秀の中で自分の後の家長は決まっていたということでしょう。
時期家長は信長と決めていたというなら、父の青写真の中の信勝のポジションもいわずもがなかもしれません。あくまであさおの想像ですが、実際信勝は信長のいい右腕・補佐役になれたのではないかと……あくまで想像です;
ということで、信秀は兄弟が必死に訴えにきたことを「戯言」とかいって一蹴してしまいます。それもどうかと思うのですが……それはこっちに置いておいて。
信秀自身がいっていますし、実は今までにもあちらこちらで登場しているのですが――『お屋形』という呼び方についてです。この『屋形』は、貴人の敬称です。この『屋形号』を有する人のみ「御屋形様」と呼ばれました。
平安時代に既にこの呼び方はあったと記憶しているのですが、やっぱり一般的には武士(武将)の呼び方と考えていいかと思います。どうやら、室町時代に有力武家(足利一門や守護等)に許されたもののようです。
……お気づきの方も多いかと思いますが、実際は、上に守護・斯波氏、守護代・織田大和守家があった織田信秀が「お屋形」を称すことはできません。
では、何と呼ばれていたかといえば――普通に『殿様』と呼ばれていたかと。
本来は「殿」なはずの信秀なのですが、それでは話が組み立てにくいので、この話の中の信秀は「お屋形様」と呼ばれております。だから、今回みたいな言い回しができるということで、ご了承ください。
ってか、本当はもっと前からこういう言い訳はしておいた方がよかったのでしょうが、すいません、ぶっちゃけますが、すっかり忘れておりました☆
最後に――「おやかた」と読むこの呼称ですが、お屋形、御屋形、お館……といろいろと書くみたいです。


■ 2010/03/20

ひとまず、3人中ひとり目の名前が出てきました――織田四郎次郎信実です。
実はこの人に関しては生没年がわかっていないという体たらくです。けど、おそらく3番目の弟(信定の四男)だと思われます。
信長の超一級史料『信長公記』にもほっとんど登場しないため(信秀弟くらい)、もしかするとこの時点では亡くなっていたかもしれないのですが、ここに登場する予定がない信秀の(多分一番目の)弟・信康は、物語の一話目に出てくる濃姫の父・斉藤道三との戦いで亡くなっているということが出ているので、信実は多分この時点ではまだ元気だっただろうと推測して登場させました。
信実の喋りはまだまだ続きそうですが、多分信長スキーじゃなくても有名なのが、『大うつけ殿』という渾名。そんな渾名されるくらい、織田信長という人はバカばっかりしていたそうです。
現代の私達が見てもさしてバカっぽく見えない行動でも、当時の人にしてみたら相当うつけて見えたのかもしれませんね――例えば、腰に何だかわからない袋を下げていたとかありますが、今でいうウェストポーチのさきがけとか思えば、何でうつけて見えるのかとか思いますものね^^;
というわけで、この『うつけ殿』、尾張中は大げさにしても那古野の周辺にはとどろいていたようです。まぁ、この当時、尾張一の織田信秀の嫡男ということで、尾張の有名人になっていてもおかしくはないかもしれませんね。


■ 2010/03/17

何だかいきなりウヨウヨ登場しました――誰ひとり自己紹介とかすることのないという体たらく。言い訳としては、ドラマとかの会話って得てしてこうじゃん?みたいな。物凄い言い訳です;
ひとまず「兄上」と信秀公のことを呼んでいる人がひとりいるので、弟であることは確かです。しかも驚くなかれ(?)、登場したみんな弟です☆
おいおい名前は登場すると思います。ので、気長にお待ちください。ちなみに、今後意外と登場するだろう人もいればそうでない人もいるような予感がしてみたり。じゃあ今出すなよってカンジですが、それはまぁね;


■ 2010/03/13

えぇと……今回の見ていただければわかりますが、一級史料と呼ばれるものから大幅に外れていますが、『武功夜話』の内容を引用しております。
理由は……面白いから☆基本的にあさおの描く内容はそんなものです。どこにもないようなエピソードを加えてみたりね;
なので、今後も是非、手厳しく見ないでくださいねvV ←元々皆様にはあたたかく読んでいただいております。本当にありがとうございます!!


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