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Talk 一巻03
■ 2009/06/07

やーっと終わりましたー>▽<
どんだけかかったんだよ……と振り返ってみたら……昨年の8月からでした。本気でどんだけ……;

さて、長い間いいたくていえなかった言い訳をば……
「信長と濃姫の新婚時代(^^///)、信長が夜半に寝所を出て行くのに気付いた濃姫が『すわっ浮気か!?』と問いただしたところ〜」というこの逸話は、大体明治期に一般的になったものだそうですが、遡ると江戸時代に出てきたものらしいです。すいません、何て書物だかすっぽり忘れてしまったのですが、中世全般だったか戦国時代だったかの逸話集(?)みたいのが江戸後期に出たらしく、それが明治期に流行ったか何かしたのか、いつの間にやら濃姫の逸話のひとつとして一般的になったみたいです。
まだ物語では続いておりますが、はやい話がこの当時、実際にはこんな遣り取りあるわけねーじゃん!的なね……というより、閨房のことを面に出すべからず(こんな言い回しではないです)、というのが織田家の家訓のひとつだったと、現在いらっしゃるご子孫の方がTVで語ってらしたくらいなのですから、それを踏まえたら、そりゃー嘘ですよね、ははは〜……――濃姫の影を追えないってセツナイ;
現在では嘘とわかっている逸話ですが、物語のエピソードとしてはおいしいかな?ということで使わせていただきました。多分、今まで使ってきた濃姫のエピソードのほとんどが「ないでしょ」なカンジだと思います。でも、濃姫の資料が本当に少ないのが現状です……むしろないに等しいかも。織田家の家訓って本当に切ない;
ここまでダラダラと書いてみたらお気づきだと思いますが、マンガに「斉藤家のどの重臣さ!?」というツッコミを入れられた方ももしかしたらおられたかもしれません。でも、こんなわけなので『道三の重臣』だけでフィクションってことで……どういう風にこの話を終わらせるのかだけ、あまり期待しないで楽しみにしてやっといてください。
そういえば、佐々成政はまだしばらく疑われなくてはいけないという作者の都合のいいポジションに置かれています。間違っても成政が嫌いなわけではありません、むしろ好きかな?(表現がアレですが;)……それを隠密のように探っている勝三郎にしても五郎左にしても大変だなおい、みたいな。本当にすいません、私のせいです;
あと……今回完璧な少女漫画ポジションに置かれてしまった信長実弟信勝殿ですが、おわかりの通り内容は完全フィクションです。折角なので、三郎殿にもライバルを(>▽</)とはりきってみたのですが……そもそもの問題で、帰蝶姫がかなり奥手で鈍感なのでその前段階で勘十郎殿負けてるかもしれません;


■ 2009/05/16

ここに出ている武衛様の名前は今後出てくるのかわからないのでこちらに――斯波義統といいます。
もともと斯波氏は尾張・越前・遠江の三国の守護だったのですが、いつの頃やら……って、まあそんなに遡らない辺りで後者のふたつを朝倉・今川両氏に持って行かれるという有様でした。で、当の斯波氏はこの頃尾張一国の守護だったわけですが、実権はなくなっていたという悲しい状態でして……下剋上の戦国ならではなのでしょう。
以前に説明したのかどうか記憶がないのでここでしておきますが、当時尾張は、上四郡・下四郡合わせて八郡で構成されていました。
で、斯波氏の居城清洲城があったのは下四郡なのですが、実権のなくなってしまった守護の代わりに実権を握っていたのがその家臣にあたる『守護代』もしくは『小守護』と呼ばれていたふたつの織田氏でした。上四郡を治めていたのが岩倉織田家(織田伊勢守家)、下四郡を治めていたのが清洲織田家(織田大和守家)でした。
「あれ?信長は『弾正忠家』っていってない?」とか思われるかもですが――その通りです。この弾正忠家は、清洲織田家の三奉行(清洲三奉行)のひとつだったりします。はやい話が織田家の庶流から出てきたのが織田信長なわけです。
さて、実権のない守護ですが、お住まいは?といいますと……前述しましたが、清洲城です。が、ここにはこの時点で実は、守護代である織田信友もいました。別邸を城内につくってもらってそこに居室していたということです。もしか本当なら、なんか悲しいですよね。
武衛(兵衛佐)という官位をもっていて守護でありながら傀儡としてしかいられなかったこの御仁は、何となくおっとりした印象があります。なので、こんなカンジで描いてしまいましたが……イメージが違う方も多いかもしれません。そしたら、すいません;


■ 2009/05/07

以前、書いたかもしれませんが、ここで出てきたので改めて――
長ーーーーーい間、こちらの都合ですが三郎君から疑われてるっぽい佐々成政ですが、春日井郡比良の人です。生まれたのが比良城らしいですが……生年から兄弟までかなり曖昧な人なので、絶対城中で生まれたんだよ、といい切れません。
そういえば、丹羽長秀が春日井郡児玉の人ですね。その距離どのくらい?……とかいわれても、実は側に寄ったことがないというトンチキなので、わかりません;
機会があったら行ってみたいかもですが……今のところこれ以上何もいえないので、比良城跡や丹羽長秀屋敷跡を紹介されているサイトさんや、地図なんかを見て参考にされてください。
物語の一番の参考文献になっている『信長公記』の作者・太田牛一も春日井郡安食村の人ですね。でも……邸跡とかはないかと思います。っていうか、池田家本に書いてあったんだっけ?違ったかな?はっきり覚えていないのですが、恒興次男輝政に『信長公記』を贈った際に自己紹介(ちょっと違う)が書かれたか?て『織田信長のすべて』あたりで読んだ記憶があるのですが……記憶が曖昧なので嘘かもしれません;


■ 2009/05/03

独楽の起源を遡ると世界的に見ればとんでもなく古くなるようです(紀元前とか)。日本でも、平安時代には既に独楽は登場していました。
専門的に考えてもおそらくそうでしょうが、一般的に考えても、現代……というとちょっと違うかもしれませんが、山とかで遊ぶ子供達が普通にドングリでコマをつくるわけですから、出土品とかの「これがコマです」的な形では平安時代かもしれなくても、日本でも超古代から遊ばれていたかもしれません。
というわけで、竹とんぼとほとんど同じく、でも既にこの時代にはあったという裏づけはある中で、独楽に登場してもらいました。
問題は――当時の人達が本当にドングリとか使ってコマをつくっていたかどうかですが……私達の時代ですらつくるのだからつくっていてもおかしくなかろう、というゴリ押しに近い形で、三郎殿にしみじみしてもらいました。
こんな感じで、三郎殿は庶民にいーっぱい感心するがいいさ!とか思うのですが……実際そこまで感心していたかどうかは、どうでしょうね?


■ 2009/04/26

以前、「楽市楽座は斉藤道三が最初」的なことを書いたような記憶があったのですが……とんでもない間違いでした。
『今堀日吉神社文書』より、近江六角氏が文書に出てくる最初のようです。「紙商売のこと。石寺新市の儀は楽市たるの条是非に及ぶべからず」としっかり『楽市』って出てます。天文18年12月のことです。
というわけで、初見は天文18年。このお話の時点が天文19年冬(だと思う;)――管理人の不備なのですが……首巻で道三が何やらいってるアレ、資料を元にすると無理ありすぎですよね……本当にもうごめんなさい!!
かなりファンタジー入っちゃってるカンジにあっさりスルーしてやってください。
ここだけではなく、他の箇所でも物凄くたくさんこんな感じのところはあると思います。今回みたいに自分で気付くのが一番なのですが……なかなか上手くいかない場合も多いので、こっそりひっそりお教え願えるとうれしいです。よろしくお願い致します!!


■ 2009/04/19

『竹とんぼ』について――
調べた範囲では、江戸時代辺りにはくっきり今みたいな形であったみたいなのですが、歴史を遡るともしかすると結構古いかも!?というものらしいというもののようです。なので……戦国時代に『竹とんぼ』があったかどうか結局わかりませんが……庶民の遊びとしてはあって欲しいなーという願望も兼ねて、登場いたしました。
なので、昔懐かしいおもちゃに詳しい方がこちらを万が一にも見てらして「ねーよ!」とか思われてたら、大変申し訳ありません。よかったら、ご一報いただけると嬉しいです。よろしくお願い致します!!


■ 2009/04/15

マンガ『花櫻の中将』より――このマンガの登場人物に『兵衛佐』という主人公の友人が登場します。
話は離れて、少しだけ『帰蝶』の話へ……――
お気づきの方はそこそこにいらっしゃる気がしますが、新たに登場した『兵衛佐』の唐名が『武衛』です。
正しくは、兵衛佐が仕事場としている左右の『兵衛府(ひょうえふ)』を指してそう呼んでいたと記憶しています。ですので、兵衛督(ひょうえのかみ)または兵衛佐(ひょうえのすけ)を『武衛』と唐名で呼んだりすることがあったという。
正確なことを覚えていないのですが、室町時代には織田弾正忠家の主人のそのまた主人である斯波家が代々この『兵衛督』『兵衛佐』を歴任していたので転じて『武衛家』と呼ばれるようになったわけです。
というわけで、よく信長やその周辺が「守護」といったり「武衛様」といっている人の正式名称(?)は『兵衛督』か『兵衛佐』のことです。自称官位が多かった戦国時代の中で、朝廷お墨付きの官位のあった斯波氏は、代々尾張守護(本当は他に越前と遠江の三守護)を歴任する確か源氏の流れを汲む由緒正しい家柄なのです。が……まあ、続きはいずれ。
『武衛』は唐名といいましたが、じゃあ日本読みはどう読んでたのさ、といわれたら……平安時代とかに疎いため「わかりません(TT;)」としか……軍隊を扱ってたところだから「つわもの」とかついてたかも?違うかな……


■ 2009/03/29

三郎殿のうつけぶりと対照的とされているのが、すぐ下の同母弟である勘十郎殿です。
折り目正しい好青年であったとされる彼ですが……そんな感じに紹介されているもう少ししたら登場するかな?みたいな場面(細かい内容はネタバレ……という言い方もヘンテコですが、まあそんな感じなので割愛します;)の反面、もっと後になって出てくるのですが、そこでは「あれ?本当に礼儀正しいの!?」と疑いたくなる印象をもつ一面も備えているという……
この人はぶっちゃけ、ほっとんど歴史に登場しないので仕方ないのかもしれませんが……その分だけ資料がないわけで、だから補完といえばカッコイイですが、はやい話があさおの空想上では、老獪な家臣達には扱いやすかったのでは?と思う側面を多分に持った御仁な印象です。
そんな部分を出せたらいいのですが……三郎殿のそういう意味でいうと最初のでっかい敵役(?)みたいな存在なのだけど、何となく憎めないのでそんな感じの人になりそうな気がします。「にっくき信行!」とか思ってる方いらしたら、すいません;
どうでもいいのですが……勘十郎殿の目が寄り目なのに、描いた当人が今更ビックリしました;


■ 2009/03/01

前にも語ったかもしれませんが、前田利家の実家は荒子城主の四男なのですが、この城主(名前はいくつかあるようですが、こちらでは利春に統一しています)は林秀貞の与力であったといわれております。
与力って?といいますと……戦国時代の『与力』は、江戸時代とかの「てぇへんだてぇへんだ」とか時代劇で出てくるアレとは違う立場の人です。この頃辺りは大体、土豪がその辺のより強い武将の傘下に入った、的なカンジで考えていただければいいのではないでしょうか。
前回述べたように、信長は林にとって主家の嫡男ですので、自分チの与力の子を何で?と思ったのかもしれません。また、この物語の中だけですが、林にとって四男五男辺りのお子についてはそこまで重要視していなかいということで、欲しいのならさくさく持ってっちゃえば?的に考えたかな?みたいな。
ただ、自身でツッコムのもヘンですが、こういうことをお屋形様を通さずいうのはアリなのかなぁと……まあ、いくらこの頃まだそこまで大きくなっていないとはいえ、織田家家臣団の往来を全てお屋形がわざわざ見ていなきゃならないのか?といわれたら、それもまた謎なのですが……というわけで、三郎殿が勝手に申し出てOKをもらってみました。


■ 2009/02/01

若かりし日、かなりのうつけ者だったといわれている信長ですが、実戦の縮小版……遊びの中で即戦になるような事柄をやっていたのでは?という話もあるようです。
暖かくなるとすぐに泳ぎはじめたりするのは体を鍛えるためとか、城下におりては奇行を繰り返していたとかいうのは城下の様子を実地で知るためだったとか……
悪ガキ――というと口は悪いですが、の総大将でイタズラばかりしていたという説もあり、それは実は戦の縮小版を陣取り合戦みたいな形でやっていたのではないか、的な見方もあるようです。
真偽はわかりません――が、当時の武将として、負け戦だと思えばあっさり逃げられる潔さとか見ると、頭がいいとか斬新とかいうだけではなく、そういったことを子供の頃から遊びで学んできたからといっても不思議ではないのかな?と納得させられてみたり。
ということで、物語の中ではこの回からはじめて登場しているチャンバラごっこ(?)ですが、意外と以前からこんなことを三郎殿はしていたりします――というつもりで、描いていたりします;


■ 2008/12/17

軍紀物のひとつである『佐久間軍紀』に佐久間大学の見目について「目と鼻の間を(耳の辺りまで)パックリ斬る」と記述してあるところから、大学はコレでいこう!と決めました。
この物語については、どちらかというと『物語』で括ってしまった方がいいんだろうなーと思うのですが、前にも述べた通り、如何せん、管理人にとって佐久間大学と柴田勝家がかなりダブって仕方ないので、見た目からはっきり分けられるこういった記述はどんな些細なものでも大変ありがたいです。というわけで、採用しました☆


■ 2008/12/07

前回紹介しました、新キャラです――佐久間右衛門と佐久間大学(允)です。
後者は多分、佐久間大学で知られているだろうと思いますが、前者は佐久間信盛で知られているかと。
後で登場しておりますが、先に大学の方から――
佐久間盛重という御仁で、柴田勝家と共に信長同母弟織田信勝の家老でした。というわけで、この当時は、那古野城より末森城の方にこの人がよくいたとしても不思議ナシみたいな。
後半の佐久間家の大黒柱といえば佐久間信盛ですが、この当時はこの人が中心的人物だったのでは?と考えられているようです。
佐久間家は、実は信長自身を裏切ったことがないということでも有名なのですが、それがあらわすように信勝が謀反を起こした時も、本来信勝側につくはずの大学なのに信長側についていたようです。その後、信長が彼を重用したことはいうまでもないわけですが……豪放で剛の者として知られていたらしい大学ですが、桶狭間の合戦の際に戦死してしまいます。
管理人的に問題は、この佐久間大学、個人的にどうしても柴田勝家とダブって仕方ありません。イメージとかナンカもういろいろ……何で信勝の下にいるのが似た(印象の)ふたりなんだ!?と……とても不思議です。
さて、佐久間信盛です。
実は、あさお的にこの当時のこの人のポジションがはっきりわかりません。信秀の重要ポストに就いていただろうことは推測がつくのですが……一説では、大学同様信勝の家老だった可能性もあるのですが、これまた説だけで……曖昧で申し訳ありません。
この人についてはひとまず大雑把に――織田軍初の軍隊(石山包囲網)を持たされたのが彼ですが、やり方がまずかったのか信長から19か条にわたる折檻状を突きつけられ、突然罷免されてしまうという憂き目にあってしまいます。失意の中、本能寺の変より前に死去したという話ですが、本当のところはよくわかりません。また、この人事問題が明智光秀に謀反の火をつけたとかよくいわれますが、それもまた謎のままなのは確かです。
『木綿藤吉、米五郎左、懸かれ柴田に、退き佐久間』という言葉にあるくらい(意味には諸説あるようです)、佐久間信盛は当時の人に名が知れていたみたいです。


■ 2008/11/19

電気のなかった頃、朝は日が出たら夜は日が落ちたら、基本的に人は起きて寝ていたらしいです。実に規則正しい生活だと思います。
燭台が登場しても、そもそも油が高いご時世だったわけで、中国から来た故事ですが『蛍雪の功』なんて言葉が現在まで残ってしまうくらい――というか、例えば平安時代の物語にも「夏には蛍をかき集め、冬には雪の灯りを頼りに〜」なんて文章が登場するくらいですから、日本でもそれは十分あり得たみたいです。で、戦国時代もまだまだ油が高価だったりします。
その理由は、専売をしていたからです――所謂、座。
信長のこの頃は確かですが、荏胡麻油から菜種油に移り変わろうとする辺りだったかと思いますが、この荏胡麻油がなかなかとれないクセモノだったようです。だけでなく『油座』という専売を許された商人のみが売ることを許されていたので、なかなか発展せず……これは、何も油に限ったことではないのですが、今回は油関連で。
というわけで、帰蝶姫が「日も落ちたから夕飯にしましょう」という言葉はそんなところから来ております。
この『座』は、教科書で習うかと思いますが、織田信長の手による『楽市楽座』というシステムによって崩壊します。それについては、また。


■ 2008/10/09

ダラダラ語。……とも違うのですが。
読んでくださる方にはおわかりかと思いますが、「何でこのお姫様はこんなにバカチンなんだ?」とイライラされる方もおられるかもしれません。それも結構長めにバカチンです;
それもこれも、戦略!――とかいえたらいいのですが、計画性のない管理人が全て悪いだけです(T▲T;)。
徐々にレベルアップしていってくれると思いますので……多分ですが……ノウタリンな作者なので、能力の範疇外になっちゃったらどうしよう、というそれさえクリアできれば、大丈夫><


■ 2008/10/01

この頃から思っていたかどうかは定かではありませんが、信長公の家臣の集め方を見ると、確かに『手駒』的存在を多く欲していたように思えます。それもきっちり使える優秀な家臣を欲しがっていたのではないでしょうか?
まぁ、普通の武将(に限りませんが)なら、誰だって優秀な部下は欲しいに違いありませんが、信長公の場合は、ただ優秀だけではなかったような気がします。そういった事柄については、専門家の方々が多く著しておられるかと思いますので、興味のある方はそちらを読んで頂くとして、あさお的信長公の家臣採用基準みたいなものについては、物語の中で上手く表現できたらいいなぁと思います。
問題はね、一応主人公は濃姫なので、信長公のそういったことを描くかどうかなのですが……それはそれ?


■ 2008/09/21

犬千代クンの弟登場――ココでは『前田藤八』と現在のところ名乗っております(幼名が伝わっていないため)。
一般的には『佐脇良之』という名前で知られている御仁です。
おわかりの通り、養子に出た人なのですが……文書の一部(本当にごく一部です)から、この年齢の時にはまだ前田家のお子であっただろうとあさお的に勝手に判断して、作中のように名乗らせております。
さて――この人についてですが……ほっとんど調べることができませんでした。『佐脇家系図』とかあるのかもしれないのですが……あさおでは見つけることもできませんでした(TT;)
わかる範囲で書きますと――
佐脇藤八(郎)良之。
前田利家のすぐ下の弟で共に信長の小姓になり(時期が一緒かはわかりません)、信長の名を一躍有名にした『桶狭間の戦い』の折に単騎飛び出した信長の後を追った5騎のひとつだったといいます。また、武芸にも秀でていたのでしょう、黒母衣衆と並んでエリート集団と称される赤母衣衆のひとりにも抜擢されていたりします。
兄利家共々、華々しい経歴をもつ藤八ですが、とある事柄から突然、出奔します。ここから先の詳細は機会があったらということで……
というわけで、後にこの人の資料が残らなくなってしまった理由のひとつは、主家を出奔してしまったからでしょうが……この人のお子はちゃんと利家の下で家臣として仕えていたと思うのですが――ここからはあさおの推測ですけど、兄をよりよく見せるために、出来のよかった(かもしれない)弟の資料が抹消もしくは兄の功績になってしまったのではないかな〜とか思ってみたりします。あさおが調べられた範囲では「佐脇藤八は前田利家の実弟ですよ」くらいしかなかったのにはびっくりしました。こうね、もう少し兄と弟の心あたたま……らなくてもいいからエピソードが欲しかったんだけどなぁ。ご存知の方いらしたら、教えてください!


■ 2008/09/20

当時のお城は『平城』『山城』に分類される中、前者が多かったといわれております。
信長居城の那古野城の跡は現在の名古屋城にわずかに残っておりますが、前者――平城でありました。
というわけで、ぐるりを塀とかで囲われていただろうということはわかるのですが……果たして、透垣で囲んでいたかといったら、甚だ嘘っぽいです。
理由のひとつは、いくら風流をうたった城であるとはいえ、透垣自体が城を守るのに適するとは到底思えない囲いであることと、最大の理由は、ある意味、那古野城は今川への最前線一歩手前くらいの重要拠点であったのにさすがに、そんな脆い囲いじゃまずいんじゃん?と思うからなのですが……
物凄い強固な塀を用意してしまうと、犬千代みたいないたずらっ子がうまく城中に忍び込むみたいな今回のようなエピソードをつくることができないので、城の壁の重要性とかは敢えて考えないことにしました。
多分、きちんとした塀にもぽっかり穴が開いていて、例えばそのことを城の主自身知っていても知らないフリをしている――みたいなカンジでいるつもりです。マンガならではってことで……だから、犬千代だけでなくひょっこり忍び込むし忍び出るし……それでも安全でいられるくらいな状態でいる三郎殿のが上手ってことで、ひとまずひとまず;


■ 2008/09/14

フロイスの『日本史』に「日本人は飲み物はお湯ばっか」的な記述があります。
フロイス曰く、夏でも傍らで湯を沸かしていていつでも飲める状態にしているし、別に川の水だって飲めるのに白湯にしてるのにはもうびっくり、ということです。そりゃ、現代日本人であるあさおもびっくり☆
この記述自体は商人を見ての記述ですが、当時の日本人は実際、白湯が一般的な飲み物であったようです。
今みたいに、水道水がマズイ!とかそもそも水道水がないし(上水道が完備されたのは江戸に入ってからだったと思います)、ってかその前に当時水がまずいわけがないし。
おそらく、当時の医学――漢方の医師の戦国時代の権威・曲直瀬道三が確か毛利家に残した医学書だったかな?に、冷たいものは極力避けるようにという下りもあるので、好んでお湯を飲んでいたのでしょうね。実際、夏場でも温かいもの飲むのって、実は新陳代謝とかの観点からも健康にいいらしいですよ。
そういえば、この白湯って平安時代でも普通に飲んでいたっぽい記述が物語に出てました。恐るべし、遣唐使とか遣隋使とか……ってか、中国4,000年。
というわけで、当時の日本人の一般的な飲み物=白湯という印象から、これからも頻繁に「湯を」ってセリフが出てくるかと思います。こういうイメージなんだなぁと思っておいてやってください。


■ 2008/08/31

掻取について――
あまり当時の衣食のことについて詳しくないので、この言葉が適切かどうか微妙なのですが……はやい話が『打掛』のことです。
あさおが知っている範囲では『小袖』と同じものだと思うのですが……少なくとも江戸時代くらいには、武家社会ではこう呼ばれているようです。裾が引き摺らないように摘まんだところからこう呼ばれるようになったらしいとか(古語では『掻いとる』といったようです。まんまなのね……)。
というわけで、戦国時代のこの時期には不適切な表現かもしれませんが……何か洒落モノっぽかったのでvV


■ 2008/08/18

五郎左、主の性格を予想してある程度の長さの槍は用意しておりました。
ちなみに、二間半≒4.5M、三間≒5.4M、四間≒7.2M、五間≒9Mです。個人的には四間辺りからやりすぎなような気がするのですが……そこは素人考えなので、いっそ10Mクラスの槍を持ってた武将とかいるかもしれません。
ところで、何でチャンバラごっこで竹槍にしているかというと、金具がついてるより危険度が低そうというのがひとつですが、最大の理由は金具つきの槍をすぐつくるのは難しそうだし高そうと思ったからでした。いくら資金豊富な織田家でもそこはシビアだと思うので。


■ 2008/08/17

『信長公記』に信長公若かりし日にこんなことをやってらしたみたいっすよ、という箇所があるのですが、そのひとつにチャンバラ……とまではいいませんが、まあそんなことをやってたよ、というような箇所があります。
信長スキーにとって有名なもののひとつ『織田軍三間半の槍』が出来上がる過程だと思ってください。
三間半ってどんくらいよ?――そう思って調べてみたのですが、あんぽんたんなあさおの能力では明治時代くらいの尺貫法しかわかりませんでした。それによると大体6.3Mです。それでも無茶苦茶違うとかはないと思います。
ちなみに、当時の槍の一般が『三間』だったかどうか、物凄い曖昧です。織田軍は三間半を使いますが、例えば上杉軍は二間半を使ったと記憶しています。一般的な槍の長さとかあったのかどうか……ただ三間柄の槍が一般的であるとどこかで読んだ記憶があるので、それを引用しました。問題は信長関連の何か、という以外どこでだったか忘れちゃったことなのですが……すいません、いつもいつもいい加減で;


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