■ 2008/07/13
ようやく終了いたしました!!
物凄い長い道程でした……今回は36Pだったというのに……『霜月』とかいっといて夏に終わってるし。季節感の欠けらもないのがこのマンガかもしれません;
織田夫妻、戦国一のバカップルを目指しているのは確かなのですが、当時、正妻として他所の国から嫁入りしてきた奥方は大体がスパイの役も担っていたようなので、今回はこんな感じの終わりです。
ただ、これくらいのことは斉藤道三の情報網ならばとっとと手に入っただろうなーと思うのですが、濃姫ならではの情報について、やっぱり信長は横流しして欲しくないと思うのです。そういう場合、隠語みたいな感じでどうやって手紙に織り込んだのか、または何か尾張の特産物とかいって実家に送る際にそこに細工とかして手紙を入れたのかな?とか、いろいろ考えてみました。
今後、そんな場面が出てくるかもしれません。その時は「こういう風にしたのか」と笑ってやってください。
■ 2008/06/15
松平竹千代は織田家人質時代、基本的にどこに人質になっていたのかといえば……大体、熱田豪商加藤家か作中にある万松寺でいいのではないでしょうか?
以前、話の都合上、末森城に信秀パパ達と一緒にいることになっていたような記憶がある竹千代君ですが、さすがにこの頃には万松寺に移動してもらいました。ご都合主義です☆
というわけで、さくさくと人質交換になってみたり……本当にこの辺りに詳しくないので、こんな感じね〜ということでさらりとかわしてください。
同じ月、現在のところ信長初見とされる命令の文(というかこの場合立て札)である『尾張熱田八ケ村宛制札』が発行されました。ここに書かれたとおり、熱田のどこか8ヶ所だか全部で8ヶ所だかの村に発布されたみたいです。
これより前から信長は政治に参加していたようなので、今後どこからともなく『初見』という命令文が発見されるかもしれませんね。楽しみだけど……名古屋って一応三大都市だからなぁ、あるとしたらどっかの蔵?見つかるといいなぁ……
■ 2008/06/01
安祥城が攻め落とされた状況などについて、実はほっとんどわかりません。徳川方の資料に詳しくないというのが一番なのかもしれませんが、この話について詳しいことを知ることができませんでした。
「安祥城が今川方に落とされ、大将であった織田信広が捕らえられ、当時織田方に人質となっていた松平竹千代と人質交換をする」
くらいしかわかりません。ですので、物語みたいなエピソードどころかこんな展開だったかどうかはちょっと……というか、描いた当人がいうのも何なのですが、果たして城の中にいたのか信広?とアヤシイ気マンマンです。一応、安祥城が攻められともあるからいいかなぁと……詳しい方がいらしたら、是非、そこのところ教えてください!
■ 2008/05/31
今回のダラダダら語りは二部構成とさせていただきます。
ダラダラ語り@
昨日の続きです――
いきなり出てきた陣羽織の新キャラは『織田(津田)三郎五郎信広』といいます。信長の一番上の兄です。
一番上なのですが庶子であったため、三男(あるいは次男)なのですが正妻腹である信長が嫡男だったりします。
信勝同様、信広の生年はさっぱりわかりません。ただ、この人の女が実は信長の養女となって丹羽長秀の室になっております。長秀が30歳くらいの時結婚するのですが、多分、前田利家ンとこもびっくりなくらいの若妻だったのではないかと推測します。また、天文9年には既に、要所である安祥城を城代として任されていることから、それだけの年齢であると考えることができます。
というわけで、少なく見積っても信長よりは10歳以上は年上だっただろうとあさおは思っております。
実は、父信秀には土田御前の前にふたりほど室がいたようなので、物凄い大人数の子供がいる信秀ですが、長男と三男の間がこれだけ離れてしまっていても、間に姫や死産があったりしたらアリかな?と思っていたりします。
行数が多くなりますので、安祥城が攻められた辺りのことについては今度にします。
ダラダラ語りA
織田家家紋についての問い合わせがありました。
家紋について、専門家ではないのでアヤシイ部分もありますが、ひとまず一般的なところだけ――
一般的に『織田木瓜』と呼ばれる木瓜紋が信長の代表的な家紋です。『五つ木瓜』、『五つ葉木瓜』と呼ばれるもので、もともとは朝倉氏(『三つ盛り木瓜』)を受け継いだものという説、信長の先祖として最も有力とされている『忌部』氏――『劔神社』の紋がこの『五つ葉木瓜』で、この神社の神主の息子が当時、越前・尾張・遠江守護だった斯波氏の家臣として仕官したのが織田家のはじまりだからという説などがあります。
さて、ご質問にありました『蝶』の家紋についてですが、これは信長が後付けでつけた家紋です。
当初、自称藤原氏を名乗った信長ですが、どういう気持ちの変化か、突然、自称平氏を名乗り出しました。平氏の家紋がご指摘の蝶紋なのです。ですので、以来、信長はよく『揚羽蝶』の紋を使用しました。
ちなみに、この揚羽蝶の紋を特別に許されたのが、乳兄弟である池田恒興です。以来、池田家は代々蝶紋を使用していることで有名ですが――今もなのかはわかりません。
お気づきかと思いますが、織田家であれば誰でも『織田木瓜』です。それは現在でもその家の本家も分家も同じ家紋というのと一緒かと……ちなみに、信長の弟である織田長益の出家名が元になっている『有楽町』には何気に『織田木瓜』が表示されていたりしますよ。
調べ切れていないので曖昧なのですが、確か信長は家臣の幾人かに『織田木瓜』の使用を許可したりとかあったみたいです(滝川一益や丹羽長秀など)。例に出したふたりはなかなか好対照で、一益はちょっとアレンジして使ってみたりしたようですが、長秀は絶対使うことはなかったようです。それが各々の『上様』に対する忠誠心だったのかもしれませんね。
ご質問下さった方、少しはお役に立てたでしょうか?もっと詳しく書かれているサイトなどがたくさんあるかと思います。是非、調べてみてください。
こちらをご覧になられた方で「ココ、間違ってるよ」とありましたら、是非、ご指摘ご指導ください。よろしくお願い致します!!
■ 2008/05/30
陣羽織、かなり嘘っぱちに描きました。
嘘っぱちというか……次Pでわかるのですけど紐を忘れてみたり、和風にしたつもりでかなり洋風っぽかったり、挙句に何だか地味です……ナンデダロウ(T▲T)。
陣羽織は室町中期頃から武士の間で甲冑の上に着るコート役みたいな感じで流行り出したようです。当時は『陣胴服』とか呼ばれていたみたいです。
もともとは防寒とか雨具とかそういった用途だったようですが、徐々に威厳が加味されたいったみたいです。朱や緋といった色は神が宿るとされていたみたいで好まれたらしく、より華やかになっていったようです。
……なわけですが、作中の陣羽織は大層地味です;イケてると思ったんだけどな……
陣羽織を着ている人物などについての語りは明日以降の予定です。
■ 2008/05/28
語りというより、勝三郎って羨ましいな〜というお話です。
あさおも五郎左のセリフの意味合いとは大分違いますが、勝三郎の位置が羨ましいです。信長公の乳兄弟――なんていいポジションなんでしょうね、勝三郎vV
他のお家でもそうであるように、勝三郎もかなり優遇されていたように思います、少なくとも若い頃は。実はそんなエピソード(かなり信長公神懸り気味)な話も『信長公記』には出ているわけですが、勝三郎は優遇されていたかもしれませんが、一方、その家臣が幅を利かせようとしてもそうは問屋がおろさないぞ、というそんなお話であったりもします。
一説には、家督争いの際の一番の立役者のひとりが勝三郎という説もありますし――詳しくはその時改めて――信長公の最古参の家臣として優遇だけではなく信頼もされていたのだろうと思います。
ちなみに、あさおは勝三郎のポジションが羨ましいには羨ましいですが、じゃあ信長公の乳兄弟になってみたいかというと……ちょっとヤかもしれません。物凄い甘チャンな上にお馬鹿なんで、命がいくつあっても足りない前に「貴様なぞいらぬ!」と一蹴されて終わりそうなので;
■ 2008/05/27
本日、月9で"CHANGE"がやっていたので、それと戦国時代(?)をかけてみます。
オープニングに大々的に登場しタイトルに変化する桐紋――『五七の桐』といいます。
現在は、日本国政府を表す紋章になっていますが、もともとは高貴な人物――天皇の家紋(?)です。
桐の紋は元来、高貴な人のみ使用を許される特権でした。中でも『五七の桐』は当時は『天子』、つまりは天皇家のみに許されたものとわれていたわけです。
それが時を経て征夷大将軍などの家臣に下賜するという『名誉』となり、現在ではこの家紋で一番有名な歴史上の人物といえば豊臣秀吉なのではないでしょうか?豊臣家の家紋がまさにこれです。
さて、じゃあ我らが右府様――信長公は?といえば……賜っております、しっかりと。あの有名な長興寺所蔵の信長肖像の裃にしっかり刺繍されております。これは、15代将軍足利義昭公から賜ったものなわけですが……もらうだけもらって結局決裂⇒追放なわけですから、なかなかシビアな世の中ですよね。
話が戻り、『五七の桐』は徳川家康が征夷大将軍になった際賜ることを辞退したため、朝廷側は以来そういう習慣をなくしたようです。そして現在――国の象徴として生きているわけです。何だか不思議ですね。
昨日の続きです――橋本一巴は信長の鉄砲の師匠でした、というところまでは説明しました。
他にも『信長公記』に浮野の戦いの折、林弥七郎という敵方と相対したという件があります。実はこのふたり旧知の間柄であったらしいのですが、それはそれこれはこれ。ちゃんと闘うわけです。その際、相手は橋本の脇を見事突き、対する橋本も林に手傷を負わせます(倒れ伏しけり、としかないのですが、次の件に助っ人が登場するので、射止めることはできなかったようです)。
彼についても、これ以上のことはわかりません。当時、最先端だった鉄砲の、この時既に『砲術の先生』というやつになっているわけですから、相当先見の明のあった人なのだろうなーと思います。
■ 2008/05/26
次Pに同じように橋本一巴の名前だけ登場する予定ですが、今回。
『信長公記』の一節に「(前略)市川大介めしよせられ、御弓御稽古。橋本一巴を師匠として鉄砲御稽古。(後略)」とあります。また別の段では武田信玄が天沢というお坊さんに「信長ってどうよ?」と質問するエピソードがあり、同じようなことを解説しています。
私の知っている範囲では、この御仁についてこれ以上のことはわかりません。信長の弓の師匠であったのだけは『信長公記』筆者太田牛がもともと弓使いであったわけですし確かだと思います。
■ 2008/05/23
以前、話したかもしれませんが、だとしたらもう一度。
丹羽長秀は、物語上にあるとおり、織田弾正忠家家臣としては新参者でした。先に述べている通り、父長政は尾張守護斯波氏の家臣でした。ですが、どうしてだか長秀は信長の小姓として織田家にあがります。
とか申しますが、実のところ、池田家も別段古参というほどの家柄なわけではないようで、父恒利の代辺りから仕えていたらしいということが分かる程度のようです。
ンじゃあ、古参って誰よ?となると……やはり、爺こと平手とか林とかその辺かと……そう遠くないうちに出てくるかな?と思うところでは、佐久間信盛で有名な佐久間氏なんかがいます。
柴田勝家は専門家によって実はそんなに古参でもないという説もあるようなので、そこのところはよくわかりません。ですが、この時既に、古参佐久間氏の当時の当主であったのではないかと思われる佐久間大学助共々信長の同母弟・信勝の家老としてつけられているので、地位がしっかりしていたのだけは確かです。
話を戻して、長秀が何故ひとり信長の家臣としてつけられたか――ということですが、これはあくまで個人的推測にすぎないのですけれど、当時尾張一といって過言でなかった弾正忠家の嫡男・信長の下に仕えるのは、守護に仕える次くらいに安泰と父は判断したのではないでしょうか?長秀は次男です。長男(嫡男)以外は自力で人生を切り拓いていかなければいけなかった世知辛い時代でした。そんな長秀にとって、信長という奉公先はかなりうってつけだったのかもしれません。問題は……史料からのみ伺えることなのでしょうけれど、当時の主君がかなりなうつけであったことでしょうか?「明日はどっちだ!?」状態になっていたような気もします。もちろん、実際の信長公は全くうつけから程遠い人で、仕える側としてはこれ以上ない人と即刻判断できたかもしれませんが。
■ 2008/05/21
なんとな〜く自身でスルーしているので、確認の意味も込めて――
勝三郎も五郎左衛門も三郎殿の小姓なわけですが、当然ながら、他にも幾人も小姓がおりました。
この時代の小姓という役職は、江戸期と違って年齢別というわけではないので、結構いい年齢の人物が『信長小姓』という身分だったりするのだけれど……如何せん、そういう人でも大体はやくて天文の終わり頃……大体永禄年間に入った辺りからしかわからないため、ここで紹介できる人数に物凄い限りが出てきます。
はやい話が、この時既に信長公の下で働いていた小姓がいたとしても、あさおの知っている限りでなかったり、小姓として登場するには年齢が足りていなかったりと……というわけで、何だか『その他大勢』みたいな感じでたまに若者っぽいのが出ているときがありますが、それが実は小姓達だと思ってくださると嬉しいです。
そのうち『その他大勢』ではない新たな小姓が出てくると思います、多分だけど……
■ 2008/05/20
池田恒興に実際、姉妹がいなかったかはっきりわかりません(昨日同様、調べ切れませんでした;)。ですが、兄弟はいなかったようです。
ちなみに、恒興の池田家は総領娘のみだったようで、父は滝川家から婿養子に入って恒利と名乗りました。後に物語に登場予定の滝川一益は従兄弟です。
さて、この父とは3歳で死別してしまう恒興ですが、その時には既に母は信長公の乳母としてあがっていたので、結果的に城の一室を与えられたと伝わっています――で、どういう経緯でかはわかりませんが、結果的に母は信秀公のお手つきとなり(当時はこういったことは一般的だったようです)、そのまま側室となり姫君を産むことになるわけですが……姫は、信長からすると異母妹、恒興からすると異父妹となるのですが、時代的に見て、恒興から見て異父妹という見方はしないみたいです。で、この姫君は、織田一門衆の織田信直の妻となるのですが……その後はあまりぱっとしなかったみたいです。
さて、戻って池田家。
恒興には兄弟はいませんが、五郎左がいうとおり最強の乳兄弟・織田信長がおりました。なので、疾風の如き時代を共に駆け抜けたのは、この人が最長かもしれません。
ですが、この人が信長の下、物凄い活躍をするかというと……実はそうでもないです。乳兄弟の割には「お?」という活躍は見られないのですが、ここからか!?という頃、不運にも信長が謀反に斃れたようにも見えるので、実は遅まきの人だったかもしれません。
信長の後秀吉に速攻で鞍替えしたので、実はあまり人気がないっぽい印象のある恒興ですが……現在、世界遺産にもなっている白鷺城こと国宝姫路城を築城したのは、恒興次男輝政です。
お気づきの方も多いと思いますが、信長の時代、池田家はあまりぱっとしなかった感が否めませんでしたけれど、江戸時代に入ると『西国将軍』という異名をもつくらいの大大名になるのでした。
恒興の名誉のためにいっておきますが、ちゃんと遊撃隊を指揮するくらいの立場にはいる人ではあったんですよ。ただ、秀吉や光秀には一歩も二歩も……どころかう〜んと遅れをとっている印象ですが……それをいったら、実は長秀も一緒です。
■ 2008/05/19
丹羽長秀には兄と弟がおりました。
とかいって、姉妹もいたようなのですが……残念ながらふたりだったかな?くらいしかわからなくて、姉だったか妹だったか微妙です。この時代ですので、姉妹ふたりでもおかしくないし、逆にもっといても不思議ではないのですけど、如何せん、丹羽文献に疎いもので……一所懸命探しているのですが、ウネウネ文字を解読不可な人間にはなかなか;
なんて愚痴はともかく、お兄さんの体が弱かったかどうか実際のところ、私では探しきれなかったのでわかりませんが、丹羽家家督を継いだのは事実お兄さんでした。そして、父同様斯波家の家臣になるわけですが――若くして亡くなってしまうため、そういう意味でいうとどうやら本家は断絶してしまったようです?これまたこちらに関しては詳しくはわかりません。
ひとまず、長秀丹羽家が家督としてでいいのかな?丹羽家を盛り立て結果的には、二本松藩主になるわけですが――この話も面白くてどうやら、関ヶ原西軍に属してしまった息子長重の先見の明のなさ(!?)で「すわっ、お家取り潰しか!?」というか、実際一度改易されてしまうわけです。が、「やー、あの丹羽殿ン家だしね〜」と征夷大将軍になった徳川家康の温情があり常陸古渡藩で大名復帰、そこから紆余曲折あり二本松藩におさまったという経緯があるようです(実際はそれだけではなくて、丹羽家の築城技術とかに目をつけたとかいうのもあるみたいです)。
話はそれましたが、長秀の弟は長秀の家臣として活躍したようですが……これ以上のことはわかりません。どうやら、その子孫は藩の重臣として活躍したようです。
■ 2008/05/18
前にもいったような記憶があるのですが……名古屋市に山という印象がありません。というか……多分、山と呼ぶほどのものはないのではないかと。尾根っぽいものとかならありますが。
というわけで、絵に偽りありなわけですが、尾根もどきだと思ってください。思えないけどね;
■ 2008/05/12
千秋氏というのは、もともと熱田神宮の大宮司の家系です。
それが戦国時代に入りいつの間にやら(どうやら、信秀パパ辺り)、武力を持つようになり武士化したようです。というわけで、首巻の頃に『あざ丸』という妖刀でちらりと名前が出ていましたが、千秋季光が稲葉山城攻めの時に戦死し、実はその後、その息子達も死んでしまうということが起こっています。
草薙ソード(草薙剣)を祭っている国家的神宮である熱田神宮の宮司が絶えてしまったらさあ大変です。物語よりはうんと後の話になるのですが、桶狭間の時に戦死した千秋季忠嫡男季信に信長がはっきり「もう武士やめろ」と命じて以来、千秋氏が戦に出ることはなくなったわけです。が、――多分、「さあ大変」というのもあるけれど、信長的観点から「戦は武士の仕事」とくっきりはっきり分けたのだろうとも推測していいかと思います。
このお家のことをあさおは大学生くらいまで「ちあき」さんだと思っていたのですが……「せんしゅう」さんです。『信長公記』も振り仮名ふってくれないかな……やっぱ無理だよね、きっとそういうのを読む人達にとっては常識なんだろうと思います。
■ 2008/05/11
昨日の続き?みたいになりますが――喜六郎を目の前に、大慌てして三郎殿の目の前に体を張ってみた勝三郎、という図は、主人のセリフが元になっているつもりです。
堂々と城に来ているのなら、別にこんな大袈裟なこともしないでしょうが、さすがに三郎殿のセリフがあんなだと、幼い喜六郎を前にしても、すわっ主に何かあるか!?と構えてしまうオチャメさんということで……や、ただ単に勝三郎が大袈裟にしてるだけという噂もあるのですけどね;
……正確には、勝三郎が大袈裟なんじゃないです。描いてる私が大袈裟なんです。かつ、今回は思いっきり言い訳です。もう少しかっこよく展開させるよう精進します。
■ 2008/05/10
この時期の信長殿の立場は、家督を継いで以降よりははるかに楽な立場にあっただろうと推測いたします。
家長ではないから、というのがありますが、最大の理由は、後ろ盾である父信秀殿が存命していたからです。
信長には少なくとも最低ひとり、信勝という同母弟がいました。
この人の正確な年齢はわかっておりませんが、一説には信長と一緒に元服をしたらしいともいいますので、多く見積っても2歳くらいの歳の差であったのではないかと推測します。結局、最後まで嫡男は信長としたままの父でしたが、いつその事情が変わるかはわからない状態であったのも事実でしょう。それくらいふたりの年齢は近かったし『信長公記』などから垣間見れる信勝殿は優等生です。
とはいえ、この時の信長殿の立場は、風雲急を告げる状態になったその後よりはるかに楽な状態だったでしょう。が!用心深いという設定を勝手につけて、ここでは忠臣中の忠臣――というか、既に幼馴染でもある乳兄弟・池田恒興に末森城に来たことは誰にも黙っておけといわせました。足元をすくわれたくない、ということと思ってください。別に、こんなことですくう人はいないかもしれませんが……世の中は世知辛いですから。
■ 2008/05/06
久しぶり(?)に新キャラです。
織田秀敏という人は、一般的に信長の後見人『玄蕃允』とされている人物です。
この人は、信秀の叔父にあたる人――信長の大叔父にあたる人物です。
信長が家督を継いでからの話になるのですが、うつけが激しくてなかなか家督っぽくならない信長におろおろしながらも、織田弾正忠家を守るべく、信長岳父斉藤道三と様々な文のやりとりをしていたということでも有名です。
物語の中では、あまり信秀と行き来がないっぽい感じにしておりますけれど、実際はそうでもなかったのではないかなーと思います。何せ、信長の後見人になるくらいの人ですから。それに、信秀から一字もらって『秀敏』と名乗ったともいわれているので。
この大叔父様は、これからもそれなりに出てくると思います。いつかはわかりませんが……
■ 2008/05/04
信長の家系である織田弾正忠家は同じ織田家からしてもかなり傍系にあたるということは以前どこかで話したかと思います。
傍系傍系といえど、この時の尾張織田家といえばイコール織田信秀と考えていい、というくらい弾正忠家は力をつけておりました。ということはつまり、領土もたくさんあったわけで……その地力の元となっていたのが、信長祖父信定が手中におさめたといわれている津島と父信秀の頃織田家のものとなったらしい熱田のふたつの湊です。
当時の貿易といえば、現在と違って太平洋よりも日本海側の方が盛んだったわけですが、それでもこのふたつの湊を手に入れられた織田弾正忠家の財力は莫大なものとなりました(もともと尾張自体が温暖で濃尾平野などが肥沃な土地であるということもあると思います)。
その証拠に、信秀は朝廷に献金をする余裕っぷりです。その見返りとして従五位下備後守という官位賜りました。ぶっちゃけ、主家清洲織田家より立派な身分になっちゃったね〜ということですね――信秀の大元の主人・守護大名である斯波氏は作中でもですが、本当に『武衛』様と呼ばれていました。これは、代々兵衛府の督か佐を拝命していたからで(兵衛督でしょう)、兵衛督を指してその唐名である『武衛』と呼んでいたわけです。ちなみに、この武衛様の位階が従五位上相当の官職であったので、その家臣である守護代はそれより下であるはずで、肩を並べてしまう形になった信秀の官位は守護代からすればかなり憎々しかったかもしれません。当時、朝廷の威光はないに等しかったので、「別に」だった可能性もありますが。
そんなお金持ちな織田家なので、その跡継ぎである信長も、どんだけうつけていようと外ばかり見ていようと、領地内をきっちり見ていなくちゃダメだぞ!と父上からの注意なわけですが……普通に考えると、跡取りたるものそれくらい朝飯前さ!と思って当たり前かもしれません。本当のうつけでさえなければですが;
■ 2008/05/01
安祥城が今川家に囲まれた時、信秀公の考えがどこにあったか今となっては知る由もありません。それは信長公に関してもそうです。
ですので、今回三郎殿がいっているセリフはどうなの?となると……場合によると当時の一般論とはちょっと違うかなぁとは思います。ただ……かなり後になって出てくる予定なのですが、織田信長に当時安祥城を守っていた信長庶兄信広は謀反を企てることがあります。結局失敗に終わるのですが、その際信長が家臣達にいった一言は「信広は殺すな」でした。というわけで、今回はこの物語からどのくらい後だよ?(実際はそんなに後じゃないです)という逸話から、親子の会話をさせてみました。
ちなみに、信長は別に兄を慕ってこういったわけではありませんが……この話の中で信秀パパが息子のセリフをどうとったかは謎です。多分双方「駒」と考えてるんだろうなぁ、と……兄にせよ弟にせよ、家督以外の人間はその人の家臣になるのが慣わしだった当時、そういう考え方が普通だったとみて間違いではないのではないかと思います。おそらくですが……
■ 2008/04/27
さて、信秀パパと三郎殿が、先に五郎左が報告した駿府今川義元の動きについての会話なわけですが……普通に考えて、情報が信秀パパに入っていないで三郎殿だけに入っているのはヘンだよね、と思います。が、ここは物語。軽〜くスルーです。
この時、事実として織田家中に駿府情報が流れていたかどうか、あさおの知る範囲ではさっぱりですが、これより大分前に太原雪斎が安祥城を囲んで失敗したまま膠着しているということになっているので、いつ何時その状態が崩れてもおかしくないと、信秀パパが踏んでいてもおかしくないとは思います。
その理由を、竹千代父の死と関連付けていたかはこれまたわかりません。ですが、いつも捨て駒っぽく使っていたらしい岡崎衆をこの時も同じように使い、岡崎衆達も遮二無二頑張っているところを見て、信秀パパもうすうすは気づいていたのではないかと思います。
真実はわかりませんが、説のひとつとして、松平広忠の死は織田信秀の画策というものがあるわけですが……安祥城を抑えた今、駿河を目指す信秀パパにとって岡崎城は物凄い欲しかったかもと想像できますけれど、さすがに城主を殺しちゃうというのはちょっと……
ですので、この話では、義元殿が家臣達にいっていることと織田家の動きとにずれが出てくるかと思います――といっても、そこまで描くことはないとは思いますが。これもまた、家臣を上手に動かすコツなんだろうな〜と、作者の奴ヘタな割には頑張ってるなと生温かく見守ってやってください。
■ 2008/04/21
昨日の続きっぽくなりますが、『信長公記』によれば喜六郎殿は信長公・信行殿双方から大変可愛がられていたようです。
ですので、喜六郎殿の訃報がふたりの下に飛び込んだ時、双方、城を飛び出したという……が、ここからがそれぞれの対応が違いました。これがまた、かなりドラマチックでステキなのですが、ここでは秘密です。引っ張ります☆
もうどうしようもなく気になる方もおられるでしょう!そりゃそうだろうと思います。そういう方は、『信長公記』を現代語訳してくださっているサイトさんをリンクさせていただいているので、是非そちらへ!!かなり劇的です。
物語の中で、突然、勘十郎殿の許に喜六郎君が現われますが、設定としてこのふたりは信長公と同母兄弟で、ふたりだけ父信秀公と共に末森城にいることにしております。史実では、勘十郎殿は事実信長公の同母弟なのですが、喜六郎君に関してはよくわかっておりません。実は、土田御前が産んだお子の正確な人数がふたり以外わからないという……ですが、こちらでは喜六郎君と3人兄弟にしようかと……もしかすると、4人兄弟にしちゃうかもしれませんが……それはまぁおいおい。
■ 2008/04/20
『閑話休題』内にあるマンガの時に語った記憶があるのですが、たくさんいる信長公の弟の中に「そりゃもう物凄い美男子なんすよ!」と太田牛絶賛の弟君がいました。それがこの喜六郎君です。
何番目の弟君かとなると……『信長公記』を元にするとある御仁との年齢的時系列がおかしなことになってしまうことから、一般的には信秀公八男(または九男)となっています。
以前、どこかにこれまた書いたような気がするのですが、織田家といえば美男美女のお家として通っていたわけで、お市の方とか見ても「なるほど!」と思うわけです。そんな中でもわざわざ記述までしちゃうくらいなんですから、喜六郎君は余程の美形だったのでしょう。
この人は、美人薄命ならぬ美男薄命ということなのか、若くして亡くなってしまいます。
詳しくは改めますが、物語の中ではその時にチラリと登場させる予定だったのですが……何か話の都合上出てきてもらうことになりました。というわけで、言い訳ですが、別に喜六郎君は口紅を塗っているわけではなくて『信長公記』に紅を差したみたいな唇の美男子という記述があることから、こんな姿にしております。
■ 2008/03/30
末森城は織田信秀終焉の地とされている場所で、信秀が建てた城です。
信秀死後は信長ではなく弟信勝の居城となります。
こういったとこから見ても、家督は確かに信長であるはずなのに、信長の危うい立場というのが想像できるわけですが、創作するという視点からもいろいろと妄想できて不謹慎ながらありがたいです。
さて、あさおは『末森城』と今後も紹介していきますが文献やサイトによっては『末盛城』と紹介されることもあります。
このふたつの違いがどこからくるのかわかりませんが……素人考えとして思うに、当時の古文書は適当に当て字するというケースが意外とあったようなので、そこからきたのかな?と勝手に解釈しております。
現在は城山八幡宮と愛知学院大学になっておりますが、那古野城などと違い、かなり遺構が残っているところでもあります。
■ 2008/03/23
チラリと父からもらった小刀を誰ともなくちらつかせている帰蝶姫ですが……この姫君があさおの夢見る濃姫になるのか、何だか不安になってきました。
あさおの夢見るというのは、大方の方が思ってらっしゃる濃姫ではないかと思うのですが――戦国時代の覇王織田信長を影からひっそりと支えた才女、といったところでしょうか?物凄い簡単な説明な気もしますが。
前にも説明したかもですが忘れちゃったのでもう一度。
戦国武将の正妻というのは、江戸時代の御台所ほど確立したものではありませんでしたが、ちゃんと奥を仕切る立場にある人ではありました。
とはいえ、この時期の信長はまだペーペーというか若造クンだし、文献などに『奥』的な存在がわかっておりませんので、物語上では帰蝶姫の周りを仕切っているだけにはなっています。
織田信長の場合、奥に限らずこの時代に関しては『信長公記』ですらかなり曖昧なため、妄想と空想をいくらでも駆使してしまえ!と総動員させていただいているわけですが……っていうか、そうじゃなくてもそうなわけですが、この物語は、『織田御台所超絶異聞』と銘打っておりますので、濃姫成長物語みたいになっていけばとか思っております。
……え?戦国時代に『御台所』はなかったんじゃって?その通り!あったのは『御台』で、しかも立場的にこの時の帰蝶姫はまだまだその名にふさわしい人ではありませんでした。が、こちらの都合でこういうタイトルです★
■ 2008/03/09
地道に話が進んでおります。しかも、時系列がムチャクチャです。実は描いていて当人が慌てました。
原因はプロットをたてずにさかさかはじめるからだと思います。時系列はあっちいったりこっちいったりしておりますが、少なくとも濃姫が怒ってるこの時は一巻ノ壱より後の話になっております。
これからもこんな調子が続きそうな予感ですが、すいません。勢いだけと心意気で読んでやってください(ワガママ;)。
一夫多妻だったはずのこの時代に、いきなり「浮気とかいってますよ、この人?」と驚いた方もいらっしゃるかもしれません。ですが、実際濃姫の逸話としてこういったものが残っております。
このお話は物語の進行上、一度区切りがついてしまう予定ですが、きっちり後に続きます。ですのでその時に改めてきちんと紹介させていただこうと思いますが、数少ない濃姫の伝説の中にこういったものがあるというのが、さすが信長の正室といいますか何だか斬新といいますか……一般的には、当時の濃姫(というか多分、正妻という立場全般を指すかと思います)の微妙な位置関係を汲んだものという取り方をしているようです。とかナントカ書いてますが、詳細はまた。
■ 2008/02/24
『治部大輔』ですが、一般的に『有職故実』といわれる中の『官位』にあたるものです。その名の通り『冶部省』の二番手とされる人なわけですが、この当時は平安時代などと違い自称が大変多かったので、本当に官位や位階をもっていたかは謎です。そんな中で今川家の当主です。義元殿は実際、官位として『治部大輔』を名乗り相当の従五位下くらいの地位にはいたのではないでしょうか?
次に、五郎左のセリフについてです。
3月頃に一度、太原雪斎(義元殿の師匠で軍師、名軍師といわれています)を大将とした2万ともいわれる大軍を投入した今川方は安祥城を攻めました。が、攻め方がまずかったんだっけかな?理由を失念してしまいましたが、よく持ちこたえた織田信広守る安祥城を奪取することができませんでした。そこから半年間、膠着状態というのも尋常の沙汰ではありませんが、まあそこはマンガ・フィクションということでさらりと。というか、多分、今川方も織田方も兵士達にちゃんと田植えさせたりしてると思うな……なんて妄想はいいとして……――まぁそういった辺りのことをいわせております。
おいおい、何だってこんなに信長が物知りさんなんだい?とか思われるかもしれませんが……偽書としてもある意味名高い『江源武鑑』にちょっと季節がずれますが、何故か義元殿と信長公が交互に近江守護佐々木六角氏に接触している件があったりするからです。若い頃からうつけやる傍ら暗躍する信長も面白かろうと……いわゆる『萌え』ってやつ?←ズレてます;
■ 2008/01/27
続き(?)です。今回は――今川義元公のことをちょこっと。
『御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ』という家柄の人です。先日までやっていた大河ドラマ『風林火山』でも紹介されていたような記憶がありますので、ご存知の方には物凄いつまらないかもしれないのでざっぱり割愛します。坊主⇒還俗⇒家督争い⇒家督=駿河守護大名ってなカンジです。
さて、義元公は大分後になって語ることもあるかと思いますが、最期が最期なだけにかなりアレな見方をされる場合も多い気がします。が!決して愚鈍だったわけではないし暗愚だったわけでもないです。もともとが武将として育っていないので武門の方は不得手な可能性ありやとは思いますが、武田信玄にも影響を及ぼしたといわれる『今川仮名目録』の追加をしてみたり、前述の武田家・北条家との三国同盟を行ったり、徐々に台頭してきた尾張織田家を抑えてみたりとなかなかの辣腕者であったりします。
それは『東海一の弓取り』と異名を取ったところからも窺い知ることができるのではないでしょうか?
この人は先にも述べている通り、もともとがお寺に預けられていた人なので、大変教養のある人です。母が公家出身であるせいなのか、自身も雅なことに精通していたという話もあります。お歯黒云々の信憑性については定かではないけれど、駿府が雅やかな土地になっていたらしいことは確かなようです。
義元公の官位がこの時本当に『治部大輔』であったかは微妙に自信がないのですが、多分間違っていないと思います――と思いたいです。
『治部大輔』についてや作中で五郎左や三郎殿がいっている事柄については、今回は語りすぎたので次回にしたいと思います。
■ 2008/01/03
今回の語りは『松平広忠』公について。彼は東照大権現こと徳川家康公のお父さんです。
この人については恥ずかしながらあんまり詳しくないのですが、確か若くして家督になったので、自領を守るために駿河守護今川家の庇護に入ったのだと記憶しています(違ったらすいません)。信長と家康が同盟を結ぶまで、岡崎の辺りは今川と織田の睨み合いの場所であったようです。というわけで、作中にある『安祥城』が織田家にとっても今川家にとってもかなりな重要拠点になっておりました。
さて、広忠公は若くして岡崎城主になるのですがこれまた若くして亡くなってしまいます。実はこの死因に諸説あります。そのひとつに信秀公策略というのがあるためそちらを引用しました。
主なき岡崎城に取り急ぎ今川家から家臣が城代として入りました。ここから話は物語のように展開されていたりします。続きは次回に語るかと……