■ 2007/09/16
マンガ、『帰蝶』アップです。
やっと『一巻ノ壱』が終了致しました〜♪もう、どんだけ〜><
1年は経ってないようですが、かなり長い時間かかったみたいです。間に他のものを描いていたりしてるので、それも原因ですかね☆
次回は『一巻ノ弐』の予定です。読んで下さった方々は気づいておられると思いますが、力一杯風呂敷を広げております。基本的に一切畳む気配なっしんぐ!な今回でした。次回以降に続いていく予定です。次回に必ず広げた風呂敷を畳むかは、現段階ではわかりませんが、徐々には畳んでいくかと思います。ですので、気長〜〜〜にお付き合い下さい!!
信長にとって、濃姫という女性は本当に大事な女性だったろうと思います。
敵対する美濃から同盟を結んだ証として来た『人質』としても重要な存在だったのはもちろんですが、濃姫の血筋は信長にとってとても心強いものだったのではないでしょうか。
織田弾正忠家は、織田家の物凄い端っこの方から出てきた家柄で、ぶっちゃければそんなにいい血筋の家ではありません。
対して濃姫は、父は今でこそ氏素性がはっきりしていませんが、母は美濃守護源氏土岐氏の流れを汲む名門明智家の姫君です。信長にとっては大層魅力的な血筋だったでしょう。
「秀吉の例をみてもわかるけど、合理的な信長は血筋なんて見ないっしょ」と思われる方もいるかもしれませんが、果たしてそうだろうかと個人的には思います。先にも申した通り、あまりいい血筋ではないとされる信長の家系図は、信長の頃に改ざんされており、曽祖父だったかな?が織田敏定(岩倉織田家――実は嘘というのが有力)になっていたりするわけです。自身の過去を気にする必要がないなら、自分の曽祖父を改ざんしたり藤原氏や平氏を名乗る必要性はどこにもない気がするわけです。
だけでなく、先に書いた通り、濃姫父斉藤道三の氏素性はわかっておりませんが、本人は美濃一国をさっくり乗っ取ってしまうくらいの武将です。その美濃国主を父にもつ濃姫を正妻に持つということは、信長のバックに斉藤道三がつくということとイコールにもなるわけです。この時はまだ父信秀が健在ではありますが、美濃国主である『父』を後ろ盾に持てた信長はとても心強かったと思います。
というわけで、あさお個人の意見かもしれませんが、信長にとって濃姫は、政治的な意味を見ても本当に物凄く重要な女性であっただろうと思うわけです。
……といっても、お話はあくまでフィクション、マンガなので、ウチのふたりは戦国一のバカップルを目指して突き進む予定なのですけどね☆
■ 2007/09/10
織田信長は学問をあまりしなかったという専門家もおられるようです。その辺の真偽についてはわかりませんが、個人的な意見としてはこんなカンジです。
いやいやいや、わからんて――ということもあるかと思うので……というか、説明思いっきり不足だろうと思うので、一応こちらにて。
上杉謙信のように坊主上がりなわけではないですし、物語の設定上としても、お子の頃からうつけ殿だったので、やはりそこまで博学であったかどうかは微妙だとは思います。ですが、最終的にあと一歩で日本をおさめる位置まで上り詰めた人です。学や知識がなければそりゃ駄目ってものだと、個人的には思うのです。
豊臣秀吉は、関白になって後も漢字がうまく読めなくて難儀したといわれています(ちなみに、素晴らしい和歌が残っていることでも有名です――が直筆といわれているものはやっぱり平仮名かと)。もちろん、もともとの生まれが違いますので、信長がそういうところに難儀するということはありませんが、インスピレーションだけで日本をおさめられたらたまりません。
というわけで、上杉謙信や岳父殿・斉藤道三のように寺に入っていた分だけの知識人だったかどうかは置いておいて、戦国武将としては十二分な知識をきっちり叩き込まれていたのではないかと推測しております。
っていうか、将来のために学問が意味なしとは合理的な信長は思わなかったような気がします。四書五経にしろ和歌にしろ、この時点でどこまで現実的であったかは別にして、もしかしたら会う可能性も将来出てくるかもしれない公家衆を相手には必要不可欠だっただろうと思います。宗教の類は基本的なことについては現代社会と違って、当時は一般的にある程度根付いていたのではないかと推測します。問題は宗派とかその前に仏教か神道か、はたまたこの頃入りだしたキリスト教かということとかありますが……
というわけで、マンガの中ではたま――に信長が本を読んでいたり書庫に入っていたりするシーンがこれかもら出てくるのではないかと思います。「えっ」と思った方がいらしたら「そういやあさおのやつ、こんなトンチキなこといってたな」と思い出していただけたら幸いです。
■ 2007/09/02
語りより言い訳です。
侍女とか小姓の心得当時編、をあさおはあまりよく理解しておりません。なので、濃姫がいってる通りかどうか定かではありません。
「えぇ?」とか思われた方がいらしたら、ごめんなさい。よかったらこっそり「違うと思うよ。こんな感じだって」と教えてやってください。
話題変わって本能寺――約一ヶ月前の話に遡りますが、本能寺(焼失した昔のやつ)で新たな発見があったようです(京都新聞)。
おおお!素晴らしいですねっ!信長研究だけでなく、ほとんど手付かずだろう濃姫研究も、ちょっとずつでいいからザバッと新発見があったら、と願います(←かなり言葉のムジュンがありますが、スルースルー♪)。
■ 2007/08/26
語りというほどではないのですが、五郎左の台詞について――
鷺山殿こと帰蝶姫は、物語のこの時点では本当にただの『人質』状態でございます(TT;)。
といったところで、敵方から来た正妻であればもう立派な『人質』なのですが、この時の帰蝶姫の立場は、侍女がいっている通りとっても危うい立場なので、本当にただの人質といっていいかと思います。
がっ、五郎左からすれば、主君信長の意向を汲んで「大事な女性である」という理解を示しているのでしょう。仮祝言のみの現在でも、そこら辺の立場は崩すまじというところかと思います。
……というところからくる五郎左のあの台詞なのでしたー。補完しないとダメな物語ってどんなよ……←や、ただ単に力量がないだけなんだけどね(ブツブツ;)
■ 2007/08/12
色恋沙汰のバトルって描くの難しいですね……多分これからしばらく何気に続くのではないかと思うのですが(本当に何気な感じで)、よくご存知の方がいらしたら「あれ?」と思われるかもしれません。
出張ってる侍女が狙っているのは身分的にも三郎殿の『側室』だろうと思われます。ちなみにこの側室、正室の了解がないとなれなかったのが当時でした。
「あの女子が気に入った。余の側室にするのじゃ☆」とか「お家の大事です。奥に入って殿の目に止まりなさい☆」とかで即まとまるお話ではございませんでした。
戦国時代の御台とは、江戸時代に確立される御台所ほど権力があったわけではないようですが、奥をしっかり把握し守らなくてはならないという立場と責任がありました。つまり「国主のお姫様が正室として嫁いできたわよ〜」で軽〜く終わるような話ではなかったわけです。
では何でこの侍女ってばこんなこといってるの?――それは、帰蝶姫がまだ『仮祝言』の立場にあるからなんですね。
ややこしいことをやらかしておりますが、これは『武功夜話』から引用しました。そっちの方が話が膨らみそうな気がしたので☆
ところで、濃姫ってば「別の道――」とかいってますが、いくら広いお城とはいえ、そんなあちこち目的の場所にそれなりのはやさで行ける道があるのかな?というのが描いた当人の感想ではあるのですが……城の構造まで勉強してないうつけなもので、そこのところはさらりとスルーしてやってください。
■ 2007/07/21■
さて、この話の中で個人的に一番描きたかったところかもしれない箇所が出て参りました。女同士のドロドロ劇序幕(?)。
そこで突然のように濃姫のことを侍女が『鷺山殿』といっておりますが、実はこの名称は『美濃国諸旧記』という史料に濃姫として載っております。
もともと、斉藤道三は稲葉山城城主でしたが、物語の通り、濃姫が輿入れの頃には嫡男義龍に城を譲り、自身は妻子と共に鷺山城に移り住んでいたといわれております。当時の女性は、婚家において名前で呼ばれるということはほぼなく、大体その土地(城)の名前を冠していたようです。例えば、お市の方は浅井長政居城小谷城から『小谷殿』、また信長長女徳姫(五徳)は松平信康居城岡崎城から『岡崎殿』といわれていました。
濃姫の『鷺山殿』は濃姫が鷺山城から輿入れしてきた姫君ということで呼ばれていたものと思われます。おそらくしばらくして『那古野殿』と呼ばれることとなったかと推測しますが、信長は父信秀似でなのか当時の武将には珍しくお引越し好きなのでコロコロ城が変わっているため、そこのところがよくわかりません。多分、城が変わるたびにその城の名前を戴いていたのではないかと推測します。
■ 2007/06/23■
本編から今回もズレますが、先日、古文書を読むスペシャリストという方とお話する機会に恵まれました。
あのくねくね文字が読めないあさおはズブの素人丸出しな質問をやれやこれや……ですがその方は大層丁寧に教えてくださいました。その節は本当にありがとうございました(っても、ここをご存知なわけないのですが;)。
古文書を読める方には特に真新しい事柄ではないと思いますが、そうでない方は一緒に驚いてやってください。
かつての文字はいくつかの流派に分かれているのだそうです。なので、読解する段階においてはその流派のポイントさえ抑えていればオッケー☆習字の行書とはちと違うとのことでした。「へー」と関心しきりでしたが、別の方にお伺いしましたところ、流派よりも書き順をしっかり把握すれば大体読めるようになるのでは?と説得力のあるお話をいただきました。いわれてみればそうかもしれません――が、これがまた難問ですよね☆
また、先の方が持っておられた文書で気付いたので質問してみてびっくりしたことに、当時(近代以前)の文章には句読点がなかったのだそうです。例えば『信長公記』とかにしても、私が読んでいるのは書き下し文(?)になってしまっているので、よもや句読点がないとは思いもよらず……そういえば、何かの史料の原本とか写しみたいのを見ると、確かに丸も点もないよな、と思い出しました。
その方曰く「史料がたくさんあれば、文中の区切りなんかは、他のものと比べればいいからいいのだけれど、そうじゃないと、切り方によって全く違う意味になってしまう」ということでした。何でも、江戸時代なんかでは似た事例の事柄をあちらの藩とこちらの藩の日記とかに書いていたり手紙にしたためていたりとよくあることなのだそうで、そうすると、いろいろなものを見比べることができるため、微妙なニュアンスの違いなども何気にわかってくるのだそうです。ですが、史料の少ない時代ともなるとそうもいかず……
ちなみに、近世(桃山・江戸)の場合は比較対照が多いからいいのだけれど、中世(鎌倉〜安土)の場合は比較対照が少ないためまさに前述のようなことになりやすいとのことでした。
……って、ちょっと待って。中世って思いっきり信長の時代入ってまんがな★
そーーーーーなんです。その方が仰るには、信長を研究するのに対してあまりに史料が少ないのだそうです。少ない少ないとは感じておりましたが……素人の感想ではなくてプロから見てもかなり少ないそうです。
私のような素人からすれば、それこそ『信長公記』みたいに一冊の本(*15 or 16冊)になっているものに物凄い価値を感じますが、プロは覚書ひとつにも価値を感じるようで、そういう文体のひとつひとつの『クセ』が結構重要なのだとか仰っておりました。
大変興味深く話を聞かせていただいた中で思ったことは、唯ひとつ。本になっているからといって、『信長公記』とか『太閤記』とか信用しない方がいいかもよ?ということです。
文中に「候(そうろう)」とそれなりに出てくるそれは「です」という変わり目なわけですが、それが「ですが」なのか「ですから」なのか、そのまま「です」なのか人によりけりかもしれません。史料はやっぱり原本を目で実際見ないといけないのかもしれません――って、東大(歴史編纂所)とか行くンかい!!
■ 2007/06/03■
前回、信長と鵜飼・信長と相撲ということを申しました。「文化面などである信長由来のものとは?」というお話をいただいていたので、そちらをちらほら。
鵜飼自身はどうやらかなり歴史のあるもののようです。1,300年くらい?おそらく信長と関わりがある『鵜飼』とこの古いものとは土地柄として関係はないのではないかと思います。信長が保護したのは『長良川の鵜飼』です。信長が何故鵜飼を保護したかは個人的にそこまで調べていないのでわかりませんが、長良川の鵜飼にいたく感動したらしい織田信長は鵜飼を保護します。説としては『鵜匠』という名称自体、信長がつけたともいいます(鷹匠と同じか似た地位のものということのようです)。以来、徳川家康も鵜飼を保護し、現在も岐阜県長良川のものが最も有名な『鵜飼』として残っているわけです。
相撲自体は、古代の神事から現代スポーツに発展したといわれています。現在のような形になった大元が信長だといいます。例えば、土俵の形を考案したのが信長だといいます。また、無類の相撲好きであった信長は勝った力士に弓を与えておりました。それが現在の『弓取り式』の元になったといわれています。『たにまち』とはもともと大坂だったかな?の『谷町』という地名が元だといいます。ですが、まさに信長はこの『たにまち』の元祖なんだろうなーとか思ってみたりします。
文化面でいいますと、やはりすぐに浮かぶのは『茶の湯』かと思います。
もともと『茶道』の原型のものは、他の大体の文化と変わらず中国からわたってきたものです。それをもっと日本風にアレンジしたいと思っていたであろう千宗易(後の千利休)に出会い、最初のパトロン(といっても、千宗易自身がお金持ちなのでこの表現は不適切ですが;)になることで、『茶の湯』が徐々に進化を遂げます。
とはいえ、『茶の湯』が現在の『茶道』のようなわびさびの世界を表現するまでに発展するのは、残念ながら信長の時代ではありません。秀吉の時代になり『茶道』として成熟して現在の高級感溢れる芸術にまで高められることになるわけです。
また、『ハンコ』をつくった人は信長だといいます。「え?漢委奴國王の金印は!?」とツッコミがありそうですが、それは『印』。私がいったのは『ハンコ』――説明が悪いのでもう少し詳しく申しますと、丸い形の印鑑が登場したのは、信長の『天下布武』印がはじめてだといいます。信長の書状の多くに花押(当時のサイン)と印鑑併用や印鑑だけなどというものが見受けられます。いくつかは、サイトでも見ることができますので、興味のある方は探してみてください。
この後、江戸幕府も印鑑を採用することになります。また、朝廷も印鑑を採用し、いつの頃からか平民も印鑑を利用するようになり、現在ではスタンプタイプの印鑑が出てくるくらいまで便利になりました。
大分長くなってきましたので、今回はこれで。機会のある時にまた――
■ 2007/05/20■
いつだったかに、織田信長は囲碁が大好きだったとか語ったことがあったような気がします。
それが直接の原因ではないのですが、信長は碁で命を落としていたりもしてるくらい囲碁好きでした(←かなりムジュンした言い回し;)。はやい話が、ちょっと囲碁で興が乗っちゃって夜更かしした挙句の翌日、桔梗紋の憎いアンチクショウにやられてしまったと……ふざけたいい方してますが、そういうゲン担ぎのようなものが好きであったらしい後の覇者・徳川家康は、この時本能寺で信長が打っていた碁の形(サンコウというらしい。正確には信長は対局を観戦してました)を嫌ったといいます。今でもその形ができるとよくないとされているようです。
信長由来のものというのは、相撲や鵜飼など含め意外といろいろあったりして、歴史という面だけでなく文化という側面から見てもスゴイ人だったんだなーと思います。
さて、物語上では新婚時代には既に信長は碁を嗜んでいるという設定になっております。これにはもしかすると賛否両論があるかもしれません。信長は武田信玄や上杉謙信のような教養人ではなかったという見方をする人もいるためかと思います。
確かに、例にあげたふたりほどの教養人ではなかったかもしれませんが……私の考えとして、信長は当時の一国の主(この時はまだ一城ですが)にたる教養の持ち主であっただろうと思っております。『信長公記』での傅役である平手政秀の紹介を見ても、信長が平手から直々に囲碁の手ほどきを受けていてもおかしくなさげだなーとか思ってみたり。もちろん、碁の家庭教師というのが別にいたかもしれません。
なので、この物語の中では、信長は幼少時から爺を相手に碁盤を囲んでいたという設定になっております。
前にいい忘れていましたが、鉄砲や槍にはそれぞれ家庭教師がついていました。それについては、また……
■ 2007/05/05■
前田犬千代こと後の前田利家は荒子の出であるということは以前語ったような記憶があります。
犬千代の父は前田利春といいます。別に利昌という名も伝わっています。他にもあるかもしれません。
さて、以前、犬千代の誕生日は自称クリスマスといったようないってないようななのですが……どうやら彼の誕生日がこれに決定したのは利家死後のことだということです。
当時(江戸時代)、将軍家から「俺らと同じ源氏姓にする気ない?」とかいわれた外様大大名加賀前田家は「や、ウチらの家紋(梅鉢)だから。菅原姓に決まってんじゃん」と結局、徳川も前田も双方が自称でそういうことにしたようです。信長が自称平氏、後の丹羽家が自称藤原氏といっているのと同じですよね。
というわけで、犬千代の誕生日についても前田家の血筋についても、利家の代には大っぴらに語られていなかったというのが現在の有力説です――前田家オフィシャルはもちろん、加賀前田家開祖前田利家公は12月25日誕生で前田家は菅原道真の流れ、ということになっております。
一般的に、前田利家は荒子の土豪前田利春の四男として誕生(生年月日諸説あり)というのが有力説です。四男がどうして前田の家を継げたのか――ということについて、機会がある時にまた。
■ 2007/04/22■
話の流れ的に信長がテキトーに槍の稽古の話をしているので、今回は信長槍道(?)について。
信長は鉄砲に目をつけただけでなく槍についてもあれこれ考えたりしました。
「なんかなー。戦闘中、槍短くね?」――とかナントカ、信長が思ったかどうかはさだかではありませんが、まあそんな感じのことを日頃考えていたらしく、通常より長めの槍を用意することを編み出してみました。
これが世にいう『三間半の長槍』です――って、世にいうって程大袈裟なものかどうかわかりませんが、当時の一般的な槍が三間柄だったといいます。寸法がよくわかりませんが、三間半が6.5Mだったかな?三間は約5.5Mです。
信長はより長いものを追求していたようで、何度も何度も研究を重ねたのかもしれません。その結果、信長の使い方的には一般的な槍の長さよりも少し長めな方がよかったようです。
ただし、これについて本当に信長がはじめて開発したかどうかは謎です。もともと槍の長さはまちまちだったはずで、その中から最も使いやすいものが流通したのではなかったかと記憶しているので(私の記憶違いならご指摘プリーズです)。
という講釈は置いておいて。『信長公記』において、信長公が短いより長くしようと研究した的なことを残しているので、物語的にはそのように進んでいくと思います。
さて、この三間半槍ですが、犬千代が元服して後、持つことになる槍が確かこの長さです。信長仕込み……かどうかはわかりませんが、信長顔負けの傾いた風情で三間半の真っ赤な長槍を肩に悠々と担いで往来をのし歩く180を越える大男。(銃刀法云々は置いておいて)今だって怖そうだけど、ちんまりした人ばかりだった当時は『槍の又左』と恐れられるに十分な気がします。
利家の話はまたその時になったらちまちまと語ってみたいと思います。
■ 2007/04/15■
池田恒興の通称・勝三郎って『しょうざぶろう』と読むのでした。
池田恒興スキーはもちろんのこと信長スキーの多くの方はご存知でしょうが、恥ずかしながら管理人は長らく『かつさぶろう』だと思い込んでおりました☆
本当に信長が勝三郎を「しょう」と読んだことがあるかどうかは謎ですが……幼名も同じという説が合っていたらいってたっぽいですよね。いいなぁ……←感想は犬ッチと一緒か!?
池田恒興は池田家嫡男かつたったひとりの男の子でございました。何故なら、婿養子に入ったお父上が勝三郎が3歳頃に他界してしまったためです。
恒興母養徳院が信長の乳母になった時はまだ父恒利は生きていたのですが、亡くなって後、母はどうしたかというと……もちろん信長乳母だったのですが、そうじゃなくて説のひとつとしてどうやら信秀の側室になってしまったのでした。
信長も実は嫡男信忠の乳母を側室にしていたりするので、当時、乳母を側室に迎えることは普通にあったことなのでしょう。まあ、当時は子供も戦略的道具に使われておりましたから、子供を産んでくれる有力候補という意味で乳母上がりの側室というのは重宝がられたのかもしれません――という話はまた機会のある時に。
信秀と養徳院の間に生まれたお子ではなかろうか?という姫君がおります。説ではありますが、一応有力説です。多分本当だと思います。
マンガの中で信長がいっている『種子島』という言葉ですが、当時いっていたかどうかよくわかりません。日本にはじめて鉄砲が伝来したのがご存知種子島で、後にこの種の火縄銃を総称して『種子島』といったのだけは事実です。問題は……当時はただ『鉄砲』とか違ういい方してたかもしれません。けどわからなかったので、スルースルーということで。
■ 2007/04/08■
『小姓』と『馬廻』の違いについて――。
年齢とかで分かれるんです!といえたらすっごい楽なのですが、戦国時代の場合はそういうわけではありません。
『小姓』が主君の身の回りのお世話を隅々までこなすお世話係ならば、『馬廻』は戦闘の際に主君を守る護衛役を務める人のことです。
織田信長の小姓として誰もが真っ先に浮かべることができる人といえば『森蘭丸』ではないかと思います。あくまで後付けで付けられた都市伝説に近い伝説に信長の爪きり後の爪の数が足りないといってみたとか細かいことが残っていたりします。それくらい気を遣わないといけない職業だったのだろうと推測できるわけですが……中でも『色小姓』と呼ばれるものは本当に大変ではなかったかと思います。
ちなみに、物語上で確実に信長の『小姓』といい切れる人物は、池田恒興、丹羽長秀、前田利家の3人のみです。では佐々成政は何?となると……普通に家臣というくらいしかいえないかもしれません。
特に物語の中の佐々家の立場がとても微妙です。実際こういうことはあったかもしれません。小姓は主君のプライベートをお世話するわけですから、気の置ける人物を側に仕えさせるわけにはいかないわけです。ですので、この段階の成政は物語の都合上も含め、個人的な意見としても織田信長の小姓ではなかったのではないかと思っております。
さて、『馬廻』ですが、先に述べたようにはやい話が近衛兵です。ですので、主君の身の回りではなく軍事面で活躍します。もともとは伝令役などであったということらしいのですが、戦においては馬上で大活躍!ということで、武勇に優れた人物でないとさすがにできない大変なお役目だったと推測します。
この馬廻衆については、ご存知の方も多いかと思いますが『黒母衣衆』『赤母衣衆』ということで佐々成政、前田利家が筆頭として双璧を成しました。他にも河尻秀隆をはじめとする母衣衆がいたわけですが、それについてはまた機会のある時に。ひとまずいえることは、軍事のエリート集団です。
逆に、池田恒興や丹羽長秀は何?といわれると……別に馬廻衆ではありませんでした。何で?と思うかもですが……それは多分、信長が馬廻衆を選ぶ基準にふたり共合わなかったからだろうと思います。これも語る機会があったらその時に。謎だらけですいませんー。気になったらこっそり聞いてやってください。
最後に――江戸時代になってくると、小姓・馬廻共に戦国時代とは様子が違ってきます。今一般的にイメージされているのはやはり江戸時代のこれらのことではないのかな?と思います。
■ 2007/04/07■
織田信長は日本で唯ひとりの『覇王』です。
さて、この『覇王』という言葉について、ゲームとかであんまりいい意味で使われていないようなのですが……決しては悪い意味ではありません。
「武力で諸侯を従えて、天下を治める人」と辞書にはあります。
詳しいことを知らなかったあさおは早速古代中国スキーに聞きました。「確か、春秋戦国時代頃の話で、何人かの『覇王』が登場した」ということでした。
辞書には上記のようにあるのですが、古代中国スキー曰く「天下をとった者は『覇者』。狙ったけれど寸前で取れなかった者が『覇王』という区切りでいいのではないか」ということでした。
お馬鹿な私にもわかりやすいです。織田信長=覇王。徳川家康=覇者。という構図だと思えばいいということでしょう。
ちなみに、日本では正確には『覇王』と呼ばれる人物はいません。敢えて『覇王』と呼ぶにふさわしいとすれば織田信長のみ、ということだけだろうと思います。←多分、個人的意見ではないと思います。
■ 2007/03/25■
『武功夜話』によると、佐々成政の実家は織田弾正忠家以外にも岩倉織田家とも繋がりがあったということです。これは、生駒氏(信長家臣かつ側室実家)などの家にもいえるのですが、彼らの住んでいる土地に起因していたようで、成政の実家と伝わる『比良(城)』は上四郡と下四郡の微妙な位置の中、これまた微妙に上四郡寄りだったりすることからくるようです。
とはいえ、佐々家は成政父の代には既に弾正忠家に忠誠を誓っている家柄でもあり、『小豆坂の戦い』という合戦年がはっきりわかっていない(合戦数も諸説あり)信秀と今川義元との戦いの折の勇士『小豆坂七本槍』にふたり名を連ねています。
そんな佐々家ですので、織田家中にあってもそれなりの信頼をもたれていたのではないかと思いたいのですが……成政の名前が『信長公記』に大々的に初登場するのは、思いがけないことだったと記憶します(兄達は別のところできっちり初登場します)。実は、この初登場と今回の話がつながっていく予定なのですが……
その初登場までのスパンが物凄い長くなってしまうというのがこれからの課題です。どうしましょうね……長々と信長に不信感抱かせるのも如何なものかと思うしね。ってか、普通にあり得ないと思うのですよ。信長といえば、後年かもだけれど、現代人並のスピード感覚の持ち主だったイメージだしね――というヘンなところで、現在思案中です。
■ 2007/03/17■
前のページから今回のページ以降へと続くお話です。
犬山・岩倉とはそれぞれ地名または城を指します。この場合は地名というより正確にはそこの城主を指しています。織田信清・織田信安といいます。岩倉は上四郡守護代のこと、信清は信長の従兄弟です。
犬山が主君である弾正忠家に一度反旗を翻したのは確かにこの時期なのですが、『武功夜話』と『信長公記』では時期が若干違います(多分、同じものを指しているのでいいだろうと勝手に判断しました)。
一級史料『信長公記』においては、犬山がワラワラやったのは正月のこととなっているのですが、『武功夜話』では3月になっています。
何でこれだけ時期がずれたのか?――考えられる理由は個人的にはひとつだけと思います。
『武功夜話』の中で、実はこの年の3月3日に織田信秀は他界します。そこで「上四郡と立ち上がった信長従兄弟」というものを演出(?)したのかな?と。ですが、この年には信秀公は生存していることが書状などで明らかになっているので、この箇所はかなり怪しいです。
どうしても『濃姫成長物語』っぽいものが描きたかったので、この時期を入れるために、物語の中で当然信秀パパは生きておりますが、この事件を無理矢理押し込めました。これがあの事件に繋がるんだなーと思われた方がおられたら「長ェ!」と引いてやってください(わからない方は楽しみにしてやってください!!)。これからもこういう無茶があちこちに登場するかもです。その時は笑ってやってください。
■ 2007/03/03■
前回語れなかったので今回は丹羽長秀について。
父の名は長政といいます。兄がひとり、長秀は次男です。弟は……私が知る範囲ではひとりです。
もともとは武蔵の国出身ともいわれていますが、その実よくわかっていないともいわれています。丹羽家では桓武天皇にたどりつくようになっているらしく、藤原姓が元という血統とされているようです。長秀の代には既に「みゃーみゃー」いってる代ですので、どっちみち尾張産ですけどね(笑)。
父……というか兄の代までは尾張守護斯波氏に仕えていた丹羽家ですが、次男だったためなのか、長秀は尾張守護代奉行織田弾正忠家(正確には、まんま信長)に仕えます。ちなみに、お兄ちゃんは若くして亡くなったので、結果的に長秀の丹羽家の家督は長秀が継いでいくわけですが……まあそれはそれとして、どうして、長秀父が自身と嫡男は斯波氏に仕えたのに、長秀達を織田家に仕えさせてのかは調べ切れていないせいか謎です。
その辺はそのうち『閑話休題』で個人的妄想解釈で描いてみたいな〜とか思っていたりするので、その時は是非読んでやってください。
■ 2007/02/25■
『武功夜話』とは、最近(といっても昭和デス)になってひょんなこと――愛知県江南市の吉田さんというお家(信長家臣前野家の子孫)で、伊勢湾台風時にたまたま崩れた土塀から見つかったという文書です。当時は物凄いセンセーショナルだったようです。
別名『前野家文書』というこの書物の中で、信長の嫡男をはじめとする3人のお子の母の名前やその女性と信長との出会いの経緯がわかったりなどしました。というわけで、一時期はこの文書を元にした小説がよくつくられました。有名な小説のいくつかはそうですので、興味のある方は見てみてください。
ところが、調べていくうちに徐々にわかってきました。「あれ?この史料おかしくね?」――戦国時代(どころか、明治時代以前)にはない地名が明記されていたりしたのが決定的だったようです。現在では史料としての価値はナシに等しいとされており、まあ一級史料からはスッポリ外されております。
史料としては微妙な位置にあるにはあるのですが、物語的にかーなーりオイシイのがこの書物です。
後日、信長と先の女性のこととか語る機会もあるかと思うので、それらはその時にしたいと思いますが、これを「嘘っぱちだから無視無視」とするには惜しい気が……というくらい萌えます←え?
さて、長くなりましたがやっとどうして今回の話が『武功夜話』を元にしようとしたかという本題に入りたいと思います。
答えは簡単で、今回の影の主人公・佐々成政の史料がほっとんどないからです。
成政で有名といえば……やはり、信長や秀吉、利家なんかの話に登場する成政の話ではないかと思います。それとか、その甥(だっけ?従兄弟?ン?)が残した(といういい方は正確ではないですが)『福智院家文書』とかが有名ではないかと思いますが……ここに何となく『武功夜話』も入れといて、というね。
この『武功夜話』は先にちょこっと述べておりますが、前野家文書です。ですので、前野さんの功名話なわけですが、彼らが仕えた主人がかなり登場してくれます。それがこの3人――織田信長、羽柴(豊臣)秀吉、佐々成政。
ですので、嘘か真かは置いておいて、萌えどころをふんだんに用意してくれているという意味もあり成政を語る上にもという意味でも、この書物は欠かせないかな〜という感じです。そういうわけで、今回の中心は『武功夜話』かな?みたいな。
『武功夜話』は現在、原本を「門外不出だから」ということで、吉田さんは公に公表しておりません。一度、セミナーか何かで出たことがあったのですが、それに参加された方の話ですと、コピーだったとか……ええ!?というお話です。
ですので、この本が史料として偽書として扱われてしまっているまま現在に至ってしまっているわけですが、気が向いたら是非、専門機関に調べてもらったらいいと思います。本物でもニセモノでもどっちでもい〜じゃん!みたいな気がするので。
ところで『武功夜話』は買うとなると普通に高いです。1冊いくらだっけ?1万円は越えます。それが4冊+1冊です。やってらんねーという値段なわけですが、吉田さんが編纂して出したこの本を元にして一部現代語訳された本が『信長編』『秀吉編』として出ております。あさおは『信長編』と5冊もっているのですが……興味のある方は、5冊揃えた方がいいと思います。普通にその方が得かなーと。
■ 2007/02/12■
それは、着物。
いつぞや、女性の着物は云々とか語った記憶があるのですが、それはそれとして、今もこの当時と変わらないのが『着物の合わせ』です。
奈良時代だか飛鳥時代だかそれ以前だか忘れましたが、大陸から渡ってきた頃、日本でも着物の合わせ方は右左逆でした――といっても、正式なことは今のところわかっていなかったと記憶してますが。
多分、懐紙とか入れるとかするようになって不便になってきたのではないですかね?平安時代には十二単はいうに及ばず直衣の下の単も普通に現在と同じ合わせ方になっていたようです。
この時代、女性の着物は前でくるりと結ぶだけ的なことをいいましたが、男性は袴でがっちり結んで腰に大小(の刀)を差すわけです。あまり詳しくは知りませんが、懐紙も懐にあったんじゃないですかね?あ、これは女性も……香袋とかね。
袖もですけど、ポケットみたいで便利だよなーとか思ってみたり……や、着物着たことはもちろんあるわけですが、着慣れない現代人としてはそんないい印象はミジンコの先程もございませんでしたが;
■ 2007/01/09■
帰蝶の着物から少しだけ。
気付いてらっしゃる方は気づいておられるだろうと思いますが、この当時の女性達の着物の着方とマンガの着物の着方と違います。
「何が?」という方もいらっしゃるでしょうから一応、あさおの浅い知識の中からちょびっとだけ(違ったらビシッと「ちっがーう!」と教えてやってください)。
戦国時代の女性の帯は前結びに結ばれていました。何か捻ってある感じ?あんまりよく私にはわからなかったのですが……現在に通じるみたいな帯の着け方は江戸に入ってからのものです。だから、『大奥』とかみたく背中がもっこりすることもありませんでした(徐々に斜めになっていったようですが、基本的に前に結ばないとだらしないとみなされていたようです)。
一応、帰蝶達は前で結ばせてはいるのですが、前で蝶々結びみたくに結ぶと絵的にカッコ悪いので少しアレンジしてあったりします(はっきりは見えないようにしてあるのですが、個人的にアレンジしてあります)。
それからどこか重ね着が過ぎる感がある方もおられるかもですが、これは完璧に描いてる側の趣味です。時折思い出したように枚数が減っていることもあるかもですが、増えたり減ったり変幻自在だと思いますので、サラリと流してやってください。
■ 2007/01/02■
本気で語り――自分語りみたいな語りです(笑)。
読んでいただければわかりますが、濃姫の背景によくわからない背景がありますが、その背景、実は『マムシ』です☆
岐阜県の方はおわかりでしょうし地図を見れば一発でわかっていただけると思いますが、美濃は内陸です。今なら太平洋でも日本海でも行きたい時に行きたいだけ行けますが、当時ンなわけはありません。特にお姫様がそんなはずもなく……実際の濃姫がどうだったかはわかりませんが、おそらく尾張に嫁ぐまで海なんざ見たことも触ったこともねえ!状態だっただろうと推測します。
「あはは、待てー」「うふふ、捕まえて御覧なさい」なーんてバカップル姿を描いてみたいですが(どうやって?)、物語上描けるかどうか……どなたか代わりに描いてください(←は?)。バカップル姿はわかりませんが、そのうち多分、海のシーンは出てくるのではないかと思います。出てこなかったらご愛嬌ということで;
■ 2006/12/24■
語りというよりごめんなさいということで――
できてふた息くらいついて気付いたのですが……2段目のふたコマの文字がとっても読みにくいことになってしまいました。大変申し訳ありません。
小春:狭い部屋の中、グルグル回られて…おふたり共、何をなさってたのかしら…?
勝三郎:⇒似たようなことを考えたらしい
と書いてあるだけでした。
読みにくいですが、あまり本編とは関係のない文章だと思いますので……あー、でも!読んでくださる方には本当に申し訳ございません!!!
■ 2006/12/23■
特に書くことがないので、どちらかというとヨタ系のお話を。
前回かその前に信長と帰蝶は小春の部屋で夫婦喧嘩をすることにしたわけですが、実は、この時代、侍女がひとり部屋を渡されてるのかどうか、管理人にはよくわかりません。ただ、平安時代とかだと、高級女房だったらひとり部屋だったはずなので筆頭侍女設定である小春にもこぢんまりしていてもひとり部屋があてがわれていてもおかしくないかな〜みたいな。
というわけで、当時でいえばこぢんまりですが、小春の部屋は大体6畳くらいの部屋ではないかと想像しています。なので、今ならそんなに小さな部屋ではないですよね。大きくはないけど……一般的?
とかなんとかいいながら、実際、侍女があてがわれたかもしれない部屋はもっと広いかもしれないし逆かもしれません。
ちなみに、もっとチッコイ頃、勝三郎は那古野城の一室を母と一緒か別かは史実的にわかりませんがもらっていたと記憶しているのですが、そちらはもっと厚遇されてたのではないかと思います。――っても、この年齢になったら城を出てたと思いますが……これもうる覚えなのではっきりしません。時間のある時、調べ直します;
■ 2006/12/18■
えぇと、信長にいわせている『お濃』という名前。
一説には信長はいっていなかったともいわれています。が、実はその真偽についてあさおにはよくわかりません。少なくとも江戸時代には濃姫で登場しているので、『帰蝶姫=濃姫』が江戸時代には一般的であったことだけは事実でしょう。
さてでは、信長が『お濃』と呼んでいなかっとしたら帰蝶姫を何と呼んでいたか――まんま『帰蝶』と呼んでいたのではないかと思います。が!それでは話が進まないので、史実で信長が濃姫を何と呼んでいたかはわかりませんが、ウチの信長は濃姫のことは生涯『お濃』で通すつもりです。あくまで予定なんだけどね……
この時期、濃姫が一般的にどう呼ばれていたかについてはもうちょっと先に出てくると思いますので、その時に――
濃姫の呼称について、詳しい方がいらしたら、是非ご教授願います!よろしくお願い致します〜〜〜><
■ 2006/12/09■
↓の続きです。
信長の非道の代表格には『蘭奢待』という東大寺に伝わる芳木の切り取りや『比叡山焼き討ち』があるわけですが、これについて……くじ引き将軍の方がそれよか100年以上前にやらかしていたというね……
信長は一応、先例に倣ってその長さ分だけ『蘭奢待』を切り取っています。その先例のひとりがこの義教将軍なわけです。
もうひとつ『比叡山の焼き討ち』について長らく信長が本堂まで焼き尽くした!とかいわれていましたが……私の記憶が正しければ、ちょっと前(昭和の終わりの頃か平成ひと桁代だと思います)の新聞に叡山の地質調査の結果、信長の時代より前に焼失している以外地層に焼き後がないという結果が発表されています。それから、信長が焼き討ちした広さもそんなに広くないということもこの時に発表されました。さてでは誰が奈良時代とかに書かれた由緒正しい経文を焼いて今それが残っているのか!?となると……これもまた義教公の暴挙なわけです。
ちなみに、火起請(火で炙ってアツアツにした鉄を握らせて火傷ができるか否かで罪の真偽を調べること)なわけですが、信長が若かりし日にとある陪臣に『火起請』しました。これについて、話がどうも胡散臭いのですが……そんな個人的な意見も中身の詳細も物語が進んでから改めてということで置いておいて、実はこれも義教将軍がばっちりやってるらしいです。
このくじ引き将軍、←といわれることをとてもキライ(当たり前)、その結果、室町将軍唯一関東に関東管領を討伐しに出かけたというアグレッシブな将軍なのだそうです。
さてでは、何で信長が義教の汚名までおっかぶされなくてはならなくなったのか!?――謎ですよね。
というわけで、ここからはあさおの想像ですが……足利義教公は確かに物凄い破天荒というか極悪非道を尽くしますが、三代将軍義満公のような偉業も8代将軍義政公のような幕府を傾けるようなこともせず、ある意味何事もなく次の将軍にバトンタッチしていくわけです。
対して織田信長公といえば、戦国時代唯一『天下一統』という命題を掲げた稀有な人物です。掲げただけではなく諸事実践して『天下布武』の下、あと一歩で天下に大号令がかけられるところまで持って行きました。それも、将軍の血筋という義教公に対して尾張守護の家臣の家臣の子という位置からです(たまたま義教スキーと本日話をしたのですが、天下人になろうとした人の中で、かなり血筋が悪げな人は信長が最初ではないか、と意見が一致しました)。
やったことは義教公のミニチュア版かもしれませんが、それ以外があまりに偉業が多すぎたため、マイナス方面の偉業も信長公が全て背負うことになったのではないでしょうか?その方が、読み手的に面白いし☆
つまり、織田信長公が実在の人物ではなく物語上の人物のようになった辺りから、だんだん、世間一般的に義教公のマイナス面のことも信長公が背負うことになっていったのではないかと……そう推測しております。
ちなみに、織田信長は明智光秀の謀反にあって本能寺で倒れます。対して、足利義教は赤松満祐という部下の謀反で倒れます。同じ頭文字M.A.の家臣の手に掛かるという辺りも、ふたりの類似点なのかもしれません。
基本的に足利義教の話は義教スキーから聞いたことのみなので、間違いや勘違いがあるかもしれません。興味のある方は是非、信長との類似点・相違点などについて調べてみてください!……というか、わかったら詳細教えてください><←自分で調べる気力が現在のところございません;
■ 2006/12/04■
本編から話をずらします。
織田信長という人は極悪非道の限りを尽くした異常人――と一面では見られていたりします。個人的に別に極悪非道でも異常でもないと思うのですが、それはもう人それぞれの取り方見方です。まあ、無理もないかもしれません。やったことがやったことですから……
さて、この「やったことはやったこと」について、何年来ある人からずーっといわれていることがあります。
「火起請をやってみた、蘭奢待は切り取った、比叡山焼き討ちした。そりゃまあ超人的なこととか悪いこととか信長やってるけどさー、絶対その手柄(!?)は義教のものだって!信長は義教のミニチュア版なだけだよ」
誰ソレ?と思う方も多いと思います。かくいう管理人も長らくいわれてるくせに未だに調べていないので詳細を知りません――足利義教公。『くじ引き将軍』というかーなーり不名誉な異名をもった室町6代目将軍です。
この将軍、うっかりくじで決定したという面白い経歴をもった征夷大将軍なのだそうですが、それを面白がるようなら大器か余程のバカです。そりゃもう卑屈に卑屈に物事を捉えていたようです。――長くなりそうなので、つづく
■ 2006/11/27■
実はこの時代の小物類について、管理人はほっとんど無知です。
なので、詳しい方から見たら「はて?」ということが多かろうと思います――ひとまず、参考にしている時代は、平安時代〜室町時代と江戸時代。戦国の時代とはズレております。が!そこはマンガ、ご愛嬌ということで……
ひとついえることは、現存する城の中に戦国時代に立てられた城は残っていないという悲しい事実があります。なので、当時の城がまだ平城だったりしたとしても(那古野城なんかその典型だったと記憶してます)、どういう内装だったかとか図が残っていないとわからないわけです。で、確かですが、那古野城は当然のように絵巻とか屏風はおろか見取り図も残ってなかったのではなかったかと……というわけで、信長が住む城に関しては当分の間は「どこの城だ?」ということになってますが、それもまたマンガならではということにしておいてください;
■ 2006/11/26■
今回も時系列の主軸に置かれているのは『信長公記』なわけですが、この頃のこの書物の記述はかなりはあやふやです。その代表格のひとつは個人的には首巻で登場した『あざ丸』の件ではないかと思います(詳しくは、首巻の『ダラダラ語り』を見て下さい)。
というわけで、この時期については基本的にほっとんどあさおの空想上の出来事なのですが……一応、もうひとつ『武功夜話』という史料も今回の重要参考資料になっています。これについてはおそらく話が進むにつれて、ご存知の方はわかってくるのではないかと……というか、わかるように描けてたらいいなぁと思ってみたり……
『武功夜話』については、今度機会のある時に書きたいと思います。
■ 2006/11/18■
やっとはじまりました、一巻ノ壱でございます♪
『信長公記』についてチラリとお話をしたいと思います。
おわかりの方は大勢いらっしゃると思います。この著書は織田信長の部下だった太田牛一(ぎゅういち/うしかず、と呼んだとも)が信長の死後、牛晩年に著した書物で、一般的に、これのみが信長を扱った唯一の史料といわれています。もちろん、信長登場の史料は他にもたくさんあります。が、信長一代記といったものは現在のところこれのみというわけです。
この書はもともと『信長記』とのみ記されたものでした。ですが、牛の書いたこの書物を土台にして小瀬甫庵(池田恒興家臣)によって描かれた『信長記』が江戸期に入り一般大衆に絶大な人気を博したといいます。それにより、本家がうっちゃられてしまったため、結局、牛著の『信長記』のが公式に信長公を記した一級史料ということで『信長公記』と改名されてしまったという……ええ!?というお話です。
この『信長公記』を土台とした作品(?)といわれるものは『甫庵信長記』以外にも『総見記(織田軍記)』(遠山信春著)などがあります。いずれも信憑性はともかく一見の価値はアリだとは思います。
専門家の間でもやはり本家本元こそが元来の『信長記』を名乗るべきではないかとか、慣れちゃったんだから別に『信長公記』でいいのではないかとか意見の分かれるところのようです。個人的には、知った時に『信長公記』だったのでこれが定着してしまっていますが、やっぱり元の名前こそがいいなぁと……太田牛一著『信長記』で小瀬甫庵著は『甫庵信長記』でいいのではないかなぁ……と。どうでしょう?
この書はもともと、牛が書き溜めたものを集めた謂わば牛の人生の集大成のひとつであったようですが……それはあくまで側面で、もうひとつの側面は、太閤豊臣秀吉の意向が色濃く反映されてしまっているという面があるということです。これについてはこれ以上は割愛しますが……史料としていい史料ですが、そういうものであるということを鑑みながら読んだ方がいいデスヨというね――時の権力者という図は悲しいですね。羽柴っちいいやつなのに……
信長公記――読みに関しては『しんちょうこうき』が一般的ですが、人によっては『のぶながこうき』とも読むようです。別にどちらでもいいかな?みたいな……ちなみに私は前者です☆
現存する最古のものといわれており、牛手書きと伝わっているものは、『池田家本』と『建勲神社本』のみのようです――そうです。池田家とは、既に物語りに登場している池田恒興ン家です。彼の家はどこかで書きましたが、外様大名の名門のひとつになります。そこに現存する最古のものがあるようです。ちなみに、先日まで岡山の方で公開されていたみたいです。遠くて無理だけど、行きたかった……
建勲神社は明治天皇の意向で信長を祀った神社です(家紋(?)はもちろん、織田木瓜です♪)。池田家本が全15巻中14巻が牛直筆とわれているのに対し、こちらは全巻直筆と伝わっているようです。確か、どちらも重要文化財?だったかそれ級のものになっていたんじゃなかったかな?
ちなみに、『全15巻+首巻』からなっている『信長公記』ですが、首巻は後に書き加えられたものであることが現在はわかっております。そのため、所蔵している家によって首巻のある家とそうでない家があったりします。↑のふたつの場合はない代表ですし、私達が本で持っている『信長公記』は一般的に『町田家本』だと思うのですが、その町田家の本の方が写本としては古いとされているようでかつ首巻のあるものの代表です。他にも前田家(もちろんこれは利家ン家デス。ここの本は確か町田家本の写本だったと記憶しております)などさまざまにあります。
太田牛一が実際は『信長公記』をどのように扱いたかったのか、私にはわかりません。ですが、太閤秀吉の許に贈られたものは現存していない代わりに、多く写本されて現存しているものが現代に繋がっており、信長スキーのバイブルとして今も最も愛される本であるのだけは確かです。