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Talk 首巻03
■ 2006/08/06■

首巻ノ参はこれにて終了でございます。ここまで読んで下さった皆様、本当にありがとうございました!!
次回は――一巻となる予定です。

ダラダラ語り。
訂正として書きましたが、天文18年は1549年です。
アップする段階になって気付きました。文字入れした時に確かに違和感があったようななかったような……でもスルーしてるってことはどっちみち一緒ですね(T△T;)。
信長と濃姫の結婚年月日については、信長公記には縁談話の年で終わってるので実は天文17年の話かも!?ともいわれているのですが……物語中にも登場している『美濃国諸旧記』にきっちり出ているのでそれでOKだろうと思います。でないと『武功夜話』においてはもーっと後話になっちゃいますしね(縁談については『信長公記』に同じ)。


■ 2006/08/05■

語りというより、思いっきり言い訳を……
こんな事件を起こしたまではいいですが、本当にこういうことがあったら実際どうなったのか、実のところさーっぱりわかりません!さすがに、こんなアホなことをやらかしたという史料とかはないようで……私の探す範囲では見つかりませんでした。
が!世の中、結婚式に遅れる人もいればドタキャンする人もいるのが現実!きっとあったに違いない――かもしれません。わかりませんが。
というわけで、もしもこんなことが起こって、新婦が式の前にノコノコ人前に出てきてしまったら、この時代においては、非常な醜聞ではなかったかと思いました。というわけで、信長曰くの『お濃の機転』となったということで……納得いただけるとありがたいです。
現実にこういうことが起こったら、この時代本当はどうなったのか、わかる方がいらしたら是非教えて下さい!よろしくお願い致します。


■ 2006/07/31■

帰蝶は尾張に来て以来、『お濃の方』と呼ばれるようになります。それが今私達が彼女を呼ぶ一般的な呼称『濃姫』に繋がっていたりします。
『お濃』『於濃』とも。『お濃の方』『濃御前』と呼ばれていたわけですが、いずれも『美濃の方』という尊称です。
信長は濃姫を「お濃」と呼んでいたらしいといいます。つまり、信長は濃姫を尊敬していたともとれるわけですが……他方、政略結婚で嫁いできた飾りの妻という見方もできます。
一般的にどういう見方がされるか、濃姫の史料が足りなさ過ぎるため判断が難しいところですが、私は前者をとっておりますので、物語もそのスタンスで参ります。
信長と濃姫は戦国一のバカップルを目指します!!(←宣言してるし……/笑;)


■ 2006/07/30■

三三九度というやつは室町時代くらいからはじまったものらしいです。
ポピュラーだったのかは私にはわかりませんが、武家では一般的だったとか……信長のこの当時、普通の『婚儀』の場合は三日三晩続いたのだそうです。新郎新婦は二日目まで白装束で、色モノを着ることができたのは三日目からだったとか……確か、三三九度は夫→妻→夫とかって順番だったとか……
今回は引用文をふたつの史料から使いました。本当は他からも引用したかったのですが、場所がなかったので断念。まあ、ふたつあれば十分かと。
ちなみに、今回この話ではふたりは『仮祝言』ということですが……三日婚儀した以上、結婚しちゃったし〜♪ってことなんだろうな(笑;)。


■ 2006/07/22■

もしかするとここではじめて信秀は尾張一統について語ったかもしれませんが、史実にこういう記述があるわけではありません。
物語上にもあるように、織田信長の家は尾張守護の家臣の家臣という家柄という意外と端っこから出ていたりします。所謂、『尾張守護代奉行織田弾正忠』というのが信秀のことなわけですが、この当時、地位は端っこだったかもしれませんが実力は尾張一でございました。「尾張に弾正忠あり」という……ってか、マンガの中では信秀氏は『備後守』と名乗ってるので「尾張に備後守あり」というわけです。
確かに信秀には主人がおりその主人にも名目上でも主人がいたわけですが、じゃあ、信秀当人が尾張一国の主になることを考えなかったかというと……それは嘘ではないかと推測します。
世は下剋上の戦国時代末期。しかも、隣国美濃は終生のライバルになる蝮の道三がさくっと主君を蹴落とし自分が国主になってみたりして。さすがに、守護に仕えて3代続くともいう織田家ですから、簡単に蹴落とすまでは考えられなかったかもしれませんが、知略計略策略何だって使って、尾張統一をワイフワークと考えていたとしてもおかしくないかと。
――というわけで、こんな話にしてみました。や、一般的に通説ではないかとは思います、多分だけど;


■ 2006/07/18■

信長パパ怒りの図です。
どこかで書いたような記憶があるようなないような……なのですが、信長父信秀氏は、信長に関していえばかなりノータッチな父親であったといわれております。
この当時の教養といえば四書五経などの漢文や古今集などの和歌なんかを習わせたり和尚から説法を受けたりしたといいます。信長には庶兄(そのうち出てきます)がおりますが、彼が織田家嫡子です。そうなれば、いわずもがな帝王学としてこういったことを学ばせるのは基本中の基本だったでしょう。
やることいっぱいありまくりの戦国武将のお子達です。今時のお受験なんて目じゃありません。遊ぶ暇ねって!とか状態だったかもしれません……や、遊んでもいたでしょうけどね、健康的に(笑)。
が!どうやら信秀は基本的に信長にこういったことを無理強いはしなかったらしいです――って、別に信長に教養がないわけではないのですが。
その理由には諸説あるようですし未だ謎とされていますが、最も有力とされている説がありそれがその通りなんだろうなと思います――おそらく織田信秀という人物には先見の明があり、戦国においては仏法用語でいうところの『バサラ』こそが真実と思ったのだろうといわれています。
バサラとは先述の通り、仏教用語……というか、サンスクリット語を語源としており、仏神である十二神将のひとり『婆沙羅』神を指すといいいます。転じて、南北朝の頃から「身分秩序を無視し華美な服装や振る舞いを好む美意識で、下剋上的行動の一種とされる(Wikipedia)」といいます。
つまり、『ばさら者』と信長を渾名したという『うつけ者』や利家をしていった『傾奇者』というのはほぼイコールと考えていいのでしょう。
応仁の乱によってはじまったといわれる『戦国時代』において、教養も大事ですがそれよりも時代を切り開く新しい感覚こそが重要と、古風な観念で育ったはずの信秀は考えその通り信長に実行したのだろうと推測します。
信秀の思惑通りかどうかはわかりませんが、信長は信秀の青写真の通りに育ち、後世、戦国を収束させた稀代の天才とまで呼ばれるに至ります。『織田信長』という人物をつくる礎として織田信秀というキーマンがいたことは、信長を知る上では重要なファクターのひとつなのではないでしょうか。


■ 2006/07/17■

語りというより言い訳です。
ずーっと言い訳したかったので、ここら辺だと語ることもなさげだし、いっか〜と思い意気揚々と(←ンなバカな;)
お侍サンといえば、腰に『大小』の刀を差しているのが普通だと思います。多分、戦国武士達もその例に漏れなかっただろうと思います。
が!管理人の力量がふたつも刀を描くのに追いつきませんでした><
なので、ごくたま〜〜〜〜〜にもしかするとふたつ描いてることもあるかもしれませんが、基本的には大きい方の刀を持たせているのではないかと思います。
一般的に外では『太刀』と呼ばれるものを携帯するようですが、それを室内で持つと非常に機動性が悪いので、小刀ではないけれど刀身の短い刀を持つのが普通であったようです。でも、マンガの中ではどこにいようともキャラ達には腰に長々と持たせるかと……
あんなことやこんなことが城内で起ころうとも、デッカイ刀でばっさばっさです(笑;)。


■ 2006/07/16■

前回語り忘れましたが、今回の回では実は勘十郎氏はもう出てきません。
何だかとんでもないところで出てこなくなったので、「え?何でこんなやつが信長のライバルとかいわれてたの?」とかあるかもしれませんが……これはあくまでフィクション。実は、とーってもお上品でいい子な御仁でございました。
詳細はもちょこっと後にしっかり出て来る機会があると思うのでそちらで見ていただくとして、何でこんなに同母兄弟の育ち方が違うんだ!?と謎に思うくらい信長と信行の育ち方は違うっぽく私には思えてなりません。
お互いどう思っていたかという実際は未だもって当時の一部の人(特に当人達)以外は誰も知るところではありませんが……『閑話休題』にその辺のところもおいおい描いていきたいな〜とは思っております。もちろん、フィクションです(笑)。


■ 2006/07/09 ■

平手政秀について語っているような語っていないような……という曖昧な記憶なので、ここで少し整理を。
最近、もしかしたら結構いい血筋の人だったかも?ともいわれておりますが、ひとまず、信秀の家老だった人で、信長が元服の折に4人の後見人のひとりになり、傅役を命じられました。
ちょっと前にいったかと思いますが、この当時の信長の二番家老にあたります。
通称は監物、中務丞といい、彼の最大の功労はやはり、帰蝶との縁談をまとめたことだろうと思います。後ろ盾に美濃の国主をつけたことは、これから敵だらけになっていく信長にとって怖い反面心強いものだったことでしょう。
彼は、信長二十歳の時に死にます――自害をするのですが、この理由については未だによくわかっておらず諸説あります。今のところ、物語の流れでどうするのかは全く考えていないというのが正直なところです;


■ 2006/07/08 ■

那古野城は信行(信勝)のいう通り、もともと今川氏の居城でした。この氏豊という人と信長父信秀は風雅な趣向で意気投合、その時も、信秀はそういった方面で那古野城に招かれたか遊びにいったのだといいます。
それまで元気だった信秀が突然腹痛だったかな?で倒れ寝込みます。慌てた氏豊は信秀の「家臣に遺言を残したい」という言葉にうたれうっかりその言葉を真に受けてしまいます。 間抜けといえばいえなくもありませんが、段取り通り家臣達は城内に入れられ、あっという間に城は織田氏に乗っ取られました――というお話。
この今川氏豊についてはあまりはっきりしたことはわかっていないようですし、私自身、詳しくないので割愛します。
ちなみに、信長は清洲城に引っ越すまでの本当に長い間この城に住んでました。多分、信長の人生最長。生誕地も織田弾正忠家の城勝幡ともこの那古野ともいわれており、現在のところは前者の方が有力です。
ところでこの『那古野城』、今はどこにあるかといえば現在の『名古屋城』内にあります。二の丸跡あたりです。かなりショボイです……懐かしさ(?)のカケラもなし。しのばれる〜とかなんて全く思えません;
個人的に夏の名古屋――ってか炎天下の名古屋城には行くべからず。うっかり熱射病にかかりかけました。炎天下だから、隠れられる場所がねんだよ、これが; 名古屋の旧家がどうしてあぁいう家のつくりなのかを実体験で理解したそんな瞬間……


■ 2006/07/07 ■

以前、予告していたかと思いますが、五郎左の目(あざ丸)の件はここまで引っ張りました。挙句に結構「え?」みたいな終わり方で……;
というわけで、どこかでダラダラ語ったように、妖刀あざ丸は今も熱田神宮に納められております。不思議ですね〜、400年以上前に丹羽長秀が納めた刀が今も熱田神宮に大事に保管されてるんですから……って、それをいったら、法隆寺とかどうなるんだ?って話なんだけどね(笑)。
ちなみに、サル君はこういう理由かどうかはともかく、この当時未来がなさげな尾張に見切りをつけて駿河今川の許へ行きました。松下加兵衛という人の小者になるわけですが……ここから先に興味のある方はご自分でお調べ下さい。多分『太閤記』とかに出てるんじゃないかと……って、サル君が誰かすっかりバレバレじゃん(←当たり前/笑)。


■ 2006/07/06 ■

後々いわせるかもしれませんがいわせない可能性もあるので、こちらにて。
ナナシさんは親指が2本ある太指症だったといわれており、利家が残した言葉やルイス・フロイスの『日本史』に記述されています。
それについて、信長は面白がったのかどうかはわかりませんが、生来の渾名付けたがり症が出たのか『六ツめ』と渾名したようです。
余談ですが、TVで小指が2本ある6本指の人は見たことがあります。普通に小指2本でした。ですので、この人も普通に親指2本描いてみました。本当は、小さな親指と普通の親指計2本とかだったかもですけれど。


■ 2006/07/05 ■

名前の出て来ないこの人ですが、この人の出身は尾張国中々村といいます。
大体の場合、中村で紹介されているので、中々村でも中村でもどちらでもいいのではないでしょうか?
この人が「やっと家を飛び出した」正確な年齢は実のところよくわかっていません。大体15歳↑↓でいいだろうと思います。
この人の家系は複雑といえば複雑で、農民か場合によってはそれより下の賎民だったといわれています(『武功夜話』では地主の子)が、この時分、実父は他界し継父が家にいました。継子であるこの人物を嫌がったためか寺に入れられた彼は寺の生活に耐えられず出奔、家に帰ったけれど、結局継父とうまくいかず……実父の残した一貫文を手にもった旅立ちだったといいます。
というわけで、そんな場面に行きあったらしい三郎殿ですが、実際そんなわけねってね☆そこはマンガ、ご都合主義レッツゴーです♪ふたりは絶対会ってません。断言してもいいや!(←え?)


■ 2006/07/04 ■

新キャラ、登場です――おわかりの通り、首巻ノ弐のオマケに出てたあのキャラです。
え?サルに見えない?……実は私にも見えません。ってか、サルっぽい顔って意外と難しいんですね……サル顔得意な方、スゴイです。
というわけで、この人はこれからもこの顔です;
ちなみに、この人が誰かわからない方は、名前はこの回には登場しませんが、そのうちわかると思いますのでお楽しみに(多分、今回で読んで下さってる全部の方がわかってらっしゃると思いますが^^)。


■ 2006/07/03 ■

乳母役を仰せつかってしまった成政ですが、成政と犬千代は本当に因縁浅からぬ間柄になっていきます。
語りでも既に書いているので、信長スキーな方でなくてもお気づきだと思いますが、『赤母衣衆』『黒母衣衆』という信長親衛隊の筆頭に各々がなっていくので、そりゃーもう因縁どころの騒ぎではなく……というか、話はそれだけですまないのが、前田―佐々の皮肉な因縁な気がします。
それについてはこちらで語るか駄文で登場しますので、そちらにて。


■ 2006/07/02 ■

丹羽長秀の家系はもともと武蔵の国の出だといわれています。いつとかは私にはわかりませんが、尾張児玉に移り住み『丹羽』姓を名乗ったといわれています。もともと尾張にいた岩崎城主だったかな?の丹羽さん(出て来る予定……はないんじゃないかと)とは関係なかったと、私の記憶ではあります。
五郎左衛門の父長政は紹介の通り、武衛殿の家臣でした。どういう経緯でかよくわかりませんが、長秀氏は守護代奉行織田信秀の嫡男の許へ仕えます。
結果的にはこの選択はお家を残すために功を奏するわけですが、この時期にはとてもではないですが、信長氏に仕えるというのはあまりお利口さんのすることではなかったように思えます。
父長政氏に先見の明があったのか、イチかバチか戦略だったのか……よくはわかりませんが、丹羽家は小さいながらも戦国の世を生き残ります。終わりよければ全てよし!というところなのでしょうか……織田家とちょっと似ていて、残るには残りますが、丹羽家も全てよし!というには程遠い印象ではありますが。


■ 2006/07/01 ■

実は、7月9日は濃姫の命日という説のある日です。
平成……一桁代の頃、この情報を新聞で知った時は、それまで生没年月日が全くわからないお人だったので小躍りして喜びました。しかも、『信長御台』ということできっちり埋葬されているということで、ダブルで小躍りです♪
今のところは有力説の域を越えていないところが大変残念ではありますが、いろいろな当時の史料を照らし合わせても、やっぱり濃姫が信長最期のその日まで正妻だった『安土殿』でいいだろうと管理人は確信しております。
いやー、この説の載った新聞、何度読み直したかなぁ……記事を捨ててしまったのが今は悔やまれてなりません(ToT)。

前回、ふたり臣キャラが登場し、だけどひとりしか紹介できなかったもうひとりが今回微妙な紹介のされ方で登場しました。
そうです!
この人こそが、織田最強の武将にして忠臣(と管理人は思っております)柴田権六勝家です。
次回かっきりおわかりいただけますが、実はこの時の権六氏は、信長直属の部下ではありません。信長の実弟である意味信長のライバルであった(とされる)勘十郎信勝氏の筆頭家老です。
いやー、やっとこさ『織田四天王』の3人が出揃いました。最後のひとりは……予定では物語のあと何年後だっけ?10年後だったっけ?あれ?忘れちゃったよ……そんな感じです。道のりは遠い;


■ 2006/06/26■

臣キャラがふたり登場しました――が、本日名前をご紹介できたのはひとりだけ。
信長の『一おとな』ことこの時の一番家老林氏です。
もともと4人いた信長氏家老なのですが、この時3人になっております。ですが、この物語では、平手爺と林氏しか登場しないような気がします。同様に、勘十郎氏の家老も某人だけのような……わかりませんが。
この林秀貞氏は『林通勝』という名前の方が有名な気がします。実はこの『通勝』氏は松永久秀氏の家臣で、信長公の家老の名前と混同したのではないかといわれております。
さて、この林秀貞氏ですが、後にある意味面白いことをやってくれます。それはおって物語上に登場すると思いますので(何せ、信長氏だけでなく帰蝶姫にとっても十分重要な事件なので)、またその時に。


■ 2006/06/25■

政治的意味合いをもつ輿入れの場合、侍女だけではなく家臣も数人相手方に連れられていくのが一般的なのですが、誰を連れていったという記述がちょこっとしかない帰蝶姫の場合、どうフォローしていいのかどうか(斉藤氏の家臣団をあまりよく調べていないというのも一因;)……だけでなく、仲人というのでしょうか?見届け人みたいな人にも困ってみたり……
ということで、帰蝶の母方の伯父で光秀の叔父にあたる明智(光安)氏に苗字と顔以外で登場してもらい、それだけだと本当かどうか不安だったので、斉藤道三家老堀田(道空)氏も同じカンジで出ていただきました。
本当のところは……『武功夜話』では平手爺と縁談をまとめた人物は美濃三人衆といわれる人達(後に出てくるんじゃないかと思います)と特に堀田氏だったようです。


■ 2006/06/19■

織田信長のことや濃姫のことをあんまり詳しくご存知でない方でも、大河ドラマとかで信長主役とかのものを見たらそれなりに出てきて結構有名なんじゃないかと思われる場面が、やっとこさ出て参りました!!
帰蝶が本当にこういう言葉を父道三にいったかどうかの真偽はわかりませんが、逸話としては残っております。
こういうところからも『濃姫の賢さ』というものがあらわれているともいわれる一方、戦国時代の女性の地位や正妻の地位などについてわかるともいわれています。
こういった話の流れで帰蝶でも帰蝶以外にも登場するかもしれない逸話から見ても、当時、正妻として相手方に嫁いだとしても、それはあくまで政略結婚というケースが多かったため、妻の視線の先は大体において嫁ぎ先ではなく実家を向いていたようだ、といわれています……
これはおそらく、帰蝶にも当て嵌まっただろうと推測します――それについては、語る機会がまたあると思いますので、その時に。


■ 2006/06/18■

帰蝶姫、小春と共にとうとう尾張に行く日が参りました。
実は彼女は『鷺山城』というお城から輿入れしたといわれています。輿入れの前年、家督と一緒に嫡子義龍に稲葉山城を譲って道三はこの城へ妻子と共に移ったといいます。
で、この鷺山という場所は、こんもりした小山として現在も岐阜県にあるのですが、実はそのどこら辺にどんな感じに城が立っていたのかはわかっていません。
栄枯盛衰、諸行無常……これから語る機会もあると思いますが、那古野城にしろ他の戦国の城にしろ、実はひとつとして現存するものはなく、石垣とかがその跡を留めているにすぎません。城主が次に移るために廃城にしてしまうケースもあれば破れて炎をかけ自害というケースもあり、当然他にもいろいろと……まさに当時は下剋上の世でございました。


■ 2006/06/17■

爺ってば、仮祝言だか祝言だかはっきりして欲しいですわ!――などと、思わないでやってください。別に耄碌したわけではなくきっと、「華燭の典ってくらい盛大な仮祝言で相手方をあっといわせるんだ!」という心意気のあらわれです。というつもりだったと思います(←覚えてろよ、自分;)。

帰蝶が信長と結婚することになったのは、『信長公記』では確かにこの時期なのですが、『武功夜話』だとこれより5年くらい後の話になっています。何故か齟齬があり、その時、前野氏達ははじめて「え?三郎殿の正妻は吉乃さん(この女性は後に出てきます)じゃないの?」くらいの状態になったみたいで、しかも……これから先は知らない方はお楽しみに(笑)。
信憑性という面で『武功夜話』は薄い、とどうしてだかいわれておりますが、一概にいい切れないのでは?と管理人は思っております。それがこの結婚式についてこんなカンジにさせたわけですが……
おそらくですが、『信長公記』が記す通り、この年にふたりは結婚をしたのだろうと思います。ですが、大っぴらに「ほーら、俺の正妻を見よ!」と信長がお披露目パーティー(本当の結婚式)のようなものをしたのはこれから数年後なのではないかと……でないと、『武功夜話』が事実と考えた時、岳父斉藤道三が実はこの時分、死の瀬戸際という状態辺りなので、ちょっと不自然かと……何が不自然か、という話は後日、逸話や某お寺にある道三直筆といわれている手紙などの話を描くと思いますので、それで「ああ!」と思っていただければいいかと。
というわけで、このマンガ内ではこんなカンジのストーリーが空想上、出来上がりました。
また、これから何度か出て来るだろう『武衛』こと尾張守護・斯波氏。もともとは越前・遠江と3ヶ国の守護を兼ねていたのですが、いろいろとあり気付いたら尾張一国の守護になっていた――挙句に、この時は、自分の城であった清洲城も信長父信秀の上司『守護代』である織田大和守家に乗っ取られてその片隅に邸を構えてもらっていたという有様だったという……思いっきり、信秀の上司の傀儡でございました。
さて、先程出た『大和守』ともうひとつの守護代『伊勢守』の織田家は双方元を辿れば親戚同士。遡れば応仁の乱辺りに、何だかいろいろあり、結局ふたつのお家は対立――そこで、尾張は8郡に分かれ、信長のこの時代、信秀は下四郡『大和守』または『清洲』織田家の筆頭奉行でございました。
ちなみに、信長がいっている「守護代」「小守護」は同じものを指します。守護の代わり(というか、その下)だから『守護代』だけれど、この時には守護より力を持つ守護代も多かったので『小』守護とも呼ばれていました。


■ 2006/06/16■

勝三郎関連でちょこっと。
以前、彼は信長の乳兄弟・池田恒興氏ということは紹介したと思います。
この人は、名門備前岡山藩池田家開祖としても知られています。
勝三郎が産まれたことにより母が乳母になったわけですが、確か、勝三郎が幼少時に父は他界しています。で、母は落飾――養徳院といいます。別名は大御乳様。
乳母コンだった信長のお陰……というのも語弊がありますが、謹厳実直・忠義の人という印象の彼は、所謂『乳兄弟』ということである程度の出世をしたような印象です。実際は……どうなのでしょう?(池田ファンの方、ごめんなさい。管理人もファンです!)
物語がもっと進めば出てくるでしょうが、当分出て来る予定のない『信長四天王』最後のひとりは、勝三郎の父方の従兄弟といわれています(お父さん、池田の婿養子さんなんですねー。当時一夫多妻性でも男の子に恵まれないことって諸事情であったんですね)。
『従兄弟』という縁故を辿って尾張まで来た、という辺りは、誰かサンと一緒だけれど、最後の忠誠心が全く違ったよ、ハハハハハ〜みたいなね。ちなみに、この縁故たどりな人達は、双方『四天王』、あらら☆


■ 2006/06/13■

平手!平手政秀を出してみました!!爺ですよ、爺><
信長ファンにはお馴染みの平手政秀爺!!これからもガシガシ出てくると思います。ジイチャン描くの苦手なのに……でも、平手描くの頑張ります!!
というわけで、平手政秀といえば首巻ノ弐で出ていますが、信長の傅役です。あとは『二おとな』こと二番家老でございます。一番家老もそのうち出てきます。ジイチャン(?)いっぱい……
悪童三郎信長の傅役なんだから、毎日胃が痛かったでしょうねー。信長氏の父信秀氏は放任主義だったらしく、ほとんど息子の教育にノータッチ!「お屋形様、ご無体な!!」とか思ったかもしれません。
ですが、彼はとても雅なことに長けていたとか。それは信秀氏も同様なわけですが、そんな両者の教育の賜物として、おそらくうつけ殿も教養豊かとまではいかなくとも、歌や踊りなどに精通していたことでしょう。また、囲碁なんかも大好きなのは爺からの影響かもしれません。かも、ですけどね。
話変わって、河尻氏のこと――河尻与兵衛秀隆といいます。おいおい語る機会もあるかとは思いますが、一応ちらっと。信長氏の若き日の大事件に関わる人であり、黒母衣衆の一員です。どうも最後まで馬廻り衆だったようです。後半は、信長嫡男信忠氏の家臣(所謂目付け役)として働きますが、詳細は機会があったらまた。


■ 2006/06/12■

そういえば、今まで説明した記憶がないので、書いてみます。重複していたら笑って許して下さい。
半生がまるでわかっていない明智光秀ですが、濃姫の従兄妹という説をこのマンガではとっています――というところまでは書いたかと思います。
何となくお気づきの方もいらっしゃるとは思いますが、母方の従兄弟です。
個人的には、光秀の家は明智本家にはあたらない明智家だったんだろうな〜と思っておりますが……(特に書く必要はないような気もしますが、機会がありましたら、その時にでも)、ひとまず、土岐明智家の人間ではあったのだろうとは思います。
詳しくは作品内にしっかり説明があるので、そちらにて……何気に、三郎氏の家の説明も、個人的にはわかりやすくしたつもりでありますので、「へー、信長って意外と歴史の端っこから登場したんだなぁ」とかって思っていただけたらいいかと……まぁ、信長氏の血筋にしても一応3つ程説がありますが、個人的には『忌部氏説』という説が有力かと……これについては、語る機会があったらダラダラ語りたいと思います。


■ 2006/06/11■

熱田といえば、名古屋市熱田区――と浮かぶかと思います。
今でこそ内陸(?)に位置している熱田ですが、それは江戸時代に埋めたてられたから。信長の時代は湊があり、津島と並んで織田弾正忠家の財を支えたといわれています。
山とか野原とかのイメージは当然ながら管理人にはないわけですが……山はともかく、戦国のこの時代にはやっぱり野原だらけだったんでしょうね。ちなみに、江戸時代に埋めたてられた現在の港区辺り……伊勢湾台風の時は物凄い大変だったそうです。


■ 2006/06/10■

↓に続き、あざ丸について……というか、この刀関連で。
どういう経緯でだかはわかりませんが、美濃との戦いの後、信長⇒長秀と持ち主が移ってるということは書きました。
ちょこっとだけ詳しく書くと、この刀については『信長公記』の首巻の大分前の方(信長独身時)に登場します。その主人公が丹羽長秀氏なのですが……ここでは何故か『惟住』姓で紹介されていたり……この名前は本当に大分後に長秀氏が賜る名なので、はてさてどうしたものだ?と思ったのですが、この場所に登場ということで、丹羽さんがこの歳でこの刀を貰ったものと管理人の中で推測しました。
となると……
功労賞というわけではないようですが、自身の刀を与えるということを信長がしている以上、この時既に、丹羽長秀という人は信長にとってかなり重要な位置を占める存在になっていただろうと個人的に推測します。
ちなみに、私の記憶が正しければですが、『信長公記』に出てくる戦にほとんど全部、丹羽長秀は参加していました。こんな部分からも、信長の長秀に対する態度がわかるかとは思います。


■ 2006/06/09■

前回かなりいい加減な説明で終わった記憶のある妖刀『あざ丸』について。
熱田神宮の説明によれば『「あざ丸」の由来は、景清の顔のあざが刀身に移ったという伝説に基づく』といいます。
帰蝶が嫁ぐきっかけとなった戦がきっかけで、丹羽長秀に渡ったものと『信長公記』ではいわれており、その前の持ち主は千秋(せんしゅう)紀伊守のものだったといいます。神宮曰く『その後信長や丹羽長秀が指料にしたと云い』というので、信長から長秀に下賜されたのかもしれません。
長秀については目を病んだ逸話がありますが、信長については残っていないところをみると、信長には呪いもよりつかなかったのか、運がよかったのか……たまたまなのでしょうけれどね(笑)。


■ 2006/06/08■

今、私達がよく知る馬といえば、多分、サラブレッドではないかと思いますが、戦国時代にサラブレッドはいません。
当時の馬は国産馬――体高140cm↑↓くらいだったといわれています。
当時の戦国武将は基本的にあまり背が高くなかったので(例外はもちろんいます。誰って……犬千代……/笑)、これでもよかったわけですが、絵的にはかなり絵にならないっぽいカンジです。
というわけで、イメージは国産馬ながら、サラブレッドっぽく描いてるかな〜みたいな……でも、脚は太く描く予定です。やっぱりそこは道産子……じゃない、大和の馬っす!


■ 2006/06/07■

前田犬千代は戌年に生まれたので命名『犬千代』です(秀吉と同い年という説もあるのですが……多分、戌年でいいと管理人が決定!)。
帰蝶より3つ、信長の4歳年下です。
小春ちゃんが目をつけるより先(?)に「色ッ男〜」という意味でだけではないですが目をつけていたのは、何を隠そう(隠してません)、織田三郎殿です。
その部分については描くかどうかはわかりませんが……史実なので、ちらっとは登場するかもしれません;
ちなみに、乗馬云々についてはあくまで架空……というより、史実では、犬千代の仕官はこれよりもっと後になっているので、この頃、信長の許を訪れているかどうかは不明です。一応、城持ちのお子(尾張の土豪、荒子城主前田利春の四男)なので。


■ 2006/06/05■

表紙にある家紋は信長方が『織田木瓜』と呼ばれるもので有名な木瓜紋、帰蝶には斉藤道三の家紋『二つ波頭』をあしらいました。それぞれの家代表ってことで……
このお話で、確実に帰蝶は尾張入りします――バトル開始ですね!!(←え?)
実在していたのかよくわかりませんが、資料のいくつかや小説に必ず登場する帰蝶姫の侍女『各務野』――結局、小春ちゃんにやってもらうことにしました。
もともとは違う人――小春ちゃんの母にやってもらおうと思っていたのですが、登場人物が多すぎるとややこしくなるというのが一点と自分に顔のバリエーションがないというのが一点(こちらの方が比重は大きいっす;)で、小春ちゃん=各務野です。
これからは「小春」と「各務野」と双方で彼女は呼ばれるのではないかと思います。これからも、どちらの名前でも、今まで通りミーハー路線だろうと思いますので、よろしくお願い致します!


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